Practice Makes Perfect/針ノ木雪渓(針ノ木峠さらさら越え)
扇沢駅駐車場から小雨の中出発
林道ゲート横の登山口。ポストあり
雪渓が見えてきた。天候の恢復を祈る
大沢小屋。晴れるどころか雨脚が増してきた
針ノ木雪渓に到着
こうなったら雨の中雪渓を直登する
視界が悪く、針ノ木峠がわからない。地図を見て真南を目指す
無情にも枝分かれした雪渓の真ん中の尾根を真南と指し示す。尾根は藪で登れないので、雪渓の選択を迫られる
岩のペンキマークを見て右側の雪渓を登る しかし傾斜は急になる一方でなんか変だ
行き止まりだ。藪の突破も試みたが、ハイマツの重厚な藪はとても越えられない。敢え無く雪渓を降りることにした 登ってきた急斜面を虚しく降りる
隣の雪渓に移ったが、俄かにガスが霽れ、針ノ木峠らしき稜線が見えた。無情にも更にふたつ隣だ 針ノ木峠には行かず、急斜面にピッケルの刃を叩き込んで直登する
何とか稜線に出た 登山道はまるで雪の下だ。山頂も見えず進退窮まったか
山頂が確認できないのでモチベーションが下がる ここで針ノ木岳山頂を断念した

蓮華岳は霽れたが、モチベーションが切れていた。下山予定時刻ということで、これも断念した

針ノ木峠に建つ針ノ木小屋。まだ営業していない
戦国武将・佐々成政が厳冬期に越えたという針ノ木峠

針ノ木雪渓越しに赤沢岳、鳴沢岳、岩小屋沢岳と続く稜線

針ノ木雪渓を降りる。結構急だ
降りて来た針ノ木峠を見上げる
雪渓の上には大きな落石の痕跡がいたるところに残っている

針ノ木雪渓(針ノ木峠さらさら越え)

2016年6月17日(金曜日)

 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こり、織田信長が家臣の明智光秀に謀殺された。同じく信長家臣の羽柴(豊臣)秀吉によって明智は討たれたが、秀吉が天下を掌握するには紆余曲折の跡目争いを経ねばならなかった。信長の嫡男信忠も明智に討たれたため、次男信雄(のぶかつ)と、信忠の子を擁立する秀吉との間で、継承権を賭けた小牧長久手の戦が起こったのである。
 信雄に助力を請われた徳川家康は秀吉に敵対し秀吉軍を圧倒したが、その陰で信雄は秀吉と和解してしまう。軍が戦ってる中、大将が寝返ってしまったわけで、家康は馬鹿々々しくなり兵を引き揚げてしまった。
 これにより実質的な天下の継承者は秀吉に決しようとしたが、それを肯(がえ)んじない戦国武将が富山にいた。佐々成政(さっさなりまさ)である。

 成政のいる越中(富山)は、秀吉派の前田利家と上杉景勝に囲まれ、このままでは秀吉に下るしかない。そこで成政は家康に秀吉討伐の再起を促すため、富山から浜松まで会いに行くことにした。しかし三方を敵に囲まれ、見つからずに浜松まで行くことは至難である。唯一敵を出し抜けるルートはあるにはあったが、誰の目にも実現は到底不可能としか思えなかった。
 それは立山から厳冬期の北アルプスを越えるルート、『さらさら越え』である。
 徳川方の記録によると、成政は天正12年(1584年)12月に浜松に到着したとある。成政は立山のエキスパートである芦峅寺(あしくらじ)と岩峅寺(いわくらじ)の助力を得て、冬季北アルプス越えをやってのけたのである。

 夜中の2時半に家を出発し、扇沢駅の駐車場に5時半に到着した。
 まだ梅雨も明けないこの日の朝も小雨だった。予報ではこの後晴れることになっているので、6時過ぎまでクルマで待機したが、一向に熄む気配はなかった。大町方面の空は明るくなってきたので、まあ直に熄むだろうと雨の中登山を開始した。
 扇沢駅の林道ゲートの横が登山口である。登山道に入ろうとすると、上から合羽を着たおじさんが降りて来た。手には鉈(なた)を持っている。挨拶して針ノ木岳に登る旨を伝えるとオジサンは、
「歩いて登るのかい。いいことだ。熊には気を付けて」
 と言って去っていった。
 こういう人はおそらく山の神の啓示である。佐々成政の化身かもしれない。この先何かが起きることを啓示しているのである。一体何が起こるというのだろう。さらさら越えは到底すんなり成功したわけではない。前途多難、もしかしたら遭難の啓示を受けたのかもしれない。
 大沢小屋に着く頃には、雨は熄むどころか、本降りとなってきた。大町方面の空は明るくなっているのに、やはり山はダメかと落胆の色が濃くなる。せめて雪渓でも見てから帰ろうと、登山を続けた。

 この冬は1月になってもまともにスキー場がオープンできず、3月早々営業を諦めてしまうところも出るなど、未曽有の少雪シーズンだった。針ノ木雪渓も同様とのことだったが、実際目の当たりにすると、それでも十分な積雪量に見えた。
 雨は降ったり熄んだりを断続的に繰り返している。
 雪の斜面を見上げていると、やはりこのままでは終われないと思った。雨を押しても登ろうと決した。アイゼンを着け、ピッケル片手に登り始めた。
 山上は雨雲に没しているため、どこが目指す針ノ木峠かわからなかった。雪渓は幾重にも枝分かれしていて、いずれも上の方はガスに蔽われていた。地図で峠が真南にあることを確かめ、プロトレックのコンパスを頼りに登った。

 しばらく登ると傾斜の緩くなるカールに出た。ところがこの先、コンパスは枝分かれした雪渓の真ん中の尾根を指し示していた。尾根は藪で登れそうもない。左右いずれかの雪渓を選ばねばならなかった。
 左の雪渓は幅が狭く貧弱そうで、入り口を大岩が扼していた。右は幅が広く立派で、入り口の岩にペンキで○が描かれていた。右側を登って行くと傾斜は見る見る急になり、やがて藪で行き止まりとなった。
 藪の奥は虚しくガスの中に消えていた。登山道の痕跡を探したが見つからなかった。アイゼンを外して強引に藪の突破を試みたが、重厚なハイマツ帯は到底それを許さなかった。諦めて再びアイゼンを装着し、折角登った急斜面を下った。

 ひとつ隣の雪渓を登り返すと俄かにガスが霽(は)れ、針ノ木峠らしき稜線が目に入った。それは更にふたつ隣の雪渓だった。
 また降りて登り返すのか。時間がどんどん無くなっていく。今日の計画は針ノ木岳と蓮華岳の二つ登るというものだったが、この時点で蓮華岳は断念した。自分の位置もわかったことだし、雪渓の登り返しをやるよりこのまま登ることにした。ところが見る見る斜度は急になり、再び藪に突き当たった。
 藪はハイマツ帯ではなかったので強引に突破した。藪を抜けたら稜線に出られるかと思ったが、再び雪渓に出た。物凄い急斜面で、見上げる稜線はガスに没して見えなかった。既に針ノ木峠より高い位置にいることは明らかで、プロトレックの高度計は2,700メートルを超えていた。もしかするとこのまま山頂に出られるかもしれないと、最初はピッケルを杖代わりにして登っていたが、終(しま)いにはツルハシを振るうように持ち替え、眼前の壁に刃をに叩き込んで、膝を突くような急斜面を登った。
 どこかで落石の轟音が響いていた。

 稜線もガスの中だった。微かに夏道の痕跡があったが、ほとんど雪に埋もれていた。雪の稜線を登って行ったが、岩場まで来て雪が途切れてしまった。辺りは岩ばかりで、夏道の痕跡は見つからなかった。
 このまま登山を強行することは躊躇われた。
 山頂が見えていれば、或いは登山道が明瞭ならば、このまま続行できたが、これ以上は遭難するかもしれないと思った。気が付けば既に全身ボロボロだった。想定を超えた雪渓との闘いに心身は深く蝕まれていた。
 登山開始から5時間20分、ガスの稜線に座り込み、この日初めての休憩を容れた。
 気が付けば腰に佩いていた登山ナイフがなくなっていた。デパートの京都物産展で購入した名刀義定である。私の身代わりとなって山に召されたのかもしれないと思った。山頂は断念した。
 食事を終え、夏道を下った。突如目の前の雲が霽れ、蓮華岳が姿を現した。眼下には針ノ木小屋が見える。やはり峠より高い位置まで登っていたのである。振り返ると針ノ木岳は未だガスに蔽われていた。

 針ノ木小屋は休業中で、固く雨戸に閉ざされていた。途中の大沢小屋も同様で、朝オジサンに会った以外誰にも会っていない。
 時折落石の轟音が虚ろに響き、何か神域に踏み込んだ気分がした。しばらくはそれに浸った。
 雪渓とは雪崩の巣である。周り中の斜面から雪崩が収斂(しゅうれん)するため、夏でも大量の残雪が見られるのである。そしてそれは同時に、落石の巣であることも認識しなければならない。
 リュックを置いて、せめて蓮華岳だけでも往復しようかと一瞬思ったが、思っただけで体は動かなかった。

 立山のザラ峠を越えた佐々成政は、その後針ノ木峠を越えたとも、それより南の七倉岳を越えたともいわれている。いずれにせよ400年以上前のことで、今日のことを踏まえると驚愕でしかない。
 家康の元に辿り着いた成政の首尾はどうだったかというと、まったくの無駄足だった。家康は秀吉の天下に不服としながらも、時勢に鑑みこれに屈したのである。成政は悲憤の末、頭を丸めて秀吉に降伏した。この時一命のみは許されたが、数年後切腹させられた。
キヌガサソウ タニウツギ オドリコソウ

●登山データ
2016年6月17日(金曜日)
扇沢駅駐車場(標高1,433M)→針ノ木岳山(標高2,821M)、標高差1,388M

扇沢駅駐車場(6時10分出発)→大沢小屋(7時10分)→針ノ木岳山頂下(11時30分)、山頂を断念、登り所要時間:5時間20分
休憩時間:25分
針ノ木岳山頂下(11時55分)→針ノ木峠(12時10分)→大沢小屋(13時55分)→扇沢駅駐車場(14時40分)、下り所要時間:2時間45分
全行程:8時間30分

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