Practice Makes Perfect/四阿山(鳥居峠・的岩ルート)
長野と群馬の県境・鳥居峠
夏季は林道終点までクルマで入れる
林道終点の駐車場
駐車場・トイレの利用料金として200円の募金箱。登山届のポストは林道入口と終点両方にある
突如現れる的岩
城壁の様な天然岩壁は、長さ200M、高さ15Mほどある
岩壁北側から登ってみる 横から見ると壁の厚さは2メートルほどしかない
人が積み上げたものではなく天然である 振り返ると的岩の軸線上に四阿山山頂がある
やはりある程度、岩壁登攀のスキルは必要だ 古永井分岐
奥が四阿山山頂、右が登ってきた鳥居峠、手前が根子岳へ至る分岐 山頂の信州祠こと白山大権現・山家神社奥宮
その昔、真田幸隆と嫡男の信綱が修築したというが、2015年の開山祭にて新築された。やはりNHK大河『真田丸』効果だろうか

山頂の上州祠こと今宮白山権現奥宮
真田と同じ滋野一族である羽尾景幸によるもので、信州祠とは対照的に古びたままだ
細長い山頂(標高2,354M)
カップラーメンとコーヒーで昼食

四阿山(鳥居峠・的岩ルート)

2016年5月18日(水曜日)

 四阿山(あずまやさん)は、長野の菅平スキー場と、群馬のパルコール嬬恋スキー場を山裾に抱える県境の独立峰である。
 山頂には信州祠と上州祠の二つの小さな神社があり、それぞれが白山大権現を祀っている。
 長野・群馬双方に里宮があり、長野が上田市(旧真田町)の山家(やまが)神社で、永禄5年(1562年)に真田幸隆と嫡男・信綱が奥宮を修築したとの記録が残っている。群馬は嬬恋村の今宮白山権現で、1469年、真田氏と同じ滋野一族の羽尾景幸が社領を寄進したと記録されている。
 1541年、武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍が真田の領地である小県(ちいさがた/現上田市)に侵攻した、いわゆる海野平合戦において、敗走を余儀なくされた海野棟綱や真田幸隆は、上州箕輪城の長野業政(なりまさ)を頼り再起を図る。この敗走劇を助けたのが、鳥居峠を越えた上州吾妻の羽尾幸世・幸全(ゆきのり)親子で、一説には幸世の娘が真田幸隆の妻とされ、つまり羽尾氏は真田にとって岳父であり、義兄弟であり、恩人である。

 その後武田信虎が息子の信玄によって追放されると形勢は俄かに変わり、真田幸隆は旧敵である武田軍に従属し小県の所領を回復した。この時幸隆は武田軍の部将として長野氏や羽尾氏を滅ぼしており、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸のいわゆる海野兄弟を調略したことで、岩櫃城と沼田城を真田のものとし、その後それぞれの城代とした海野兄弟へも北条内通の嫌疑を懸け誅殺してしまう。
 同じ山を挟んだ同じ神を信仰する同じ滋野一族でありながら、戦国乱世に運命の趨勢を共にできなかった真田氏と羽尾氏に思いを馳せながら、この山に登ることにした。

 四阿山の登山道は数多く、中でも夏季営業しているパルコール嬬恋のゴンドラを使うルートと、菅平牧場から根子岳を経由するルートが人気が高い。しかし白山信仰の修験道として尤も正当なのは、県境の鳥居峠からのルートだろう。今回はこのルートを選択する。
 鳥居峠にも駐車場はあるが、夏季なら林道を3キロ先まで入れるので、林道終点をスタート地点とする。
 簡易トイレが置かれ、募金箱のポストがある。駐車場とトイレの管理費として一人200円とあるが、真田家の家紋である六文銭にちなんで600円を放り込んだ。
 この駐車場から登山道はいきなり二手に分かれる。右が正当な修験道の上州古道で、左が的岩経由の登山道である。登りは的岩経由、帰りは上州古道で行くことにする。

 的岩。
 奇妙な岩である。高さ15メートル、横幅200メートルの石垣が突如現れる。石組みされた城壁の様にしか見えないが、柱状節理という天然岩である。岩の端にまわって見ると厚さは2メートルほどしかなく如何にも異形である。
 この岩に登るのがこのルートを選んだ理由でもあり、早速リュックを下ろして登攀点を探すと北端から登れそうだった。岩はアーチ状になっていて、端から中央に掛けて柱状節理が上り階段のように続いている。
 太古、地中から噴出した熔岩が、地面の割れ目の中で固まり、その後周囲の土が浸食で無くなり出現したものらしい。乾燥収縮によって亀裂が入り、それが石垣の様に見える。壁は垂直ではなく若干西寄りに傾倒していて、てっぺんを歩くには平衡感覚が保ち難いが、幅は充分あるので恐怖心さえ抑え込めれば問題ない。

 かつて宮本武蔵が、スポンサーである姫路の富商・赤壁屋道斎から、子息への兵法指導を頼まれた逸話がある。
 少年が兵法の極意を訊くと、武蔵は部屋の敷居を指差し、「その上を歩けるか?」と訊いた。
 少年が「歩けます」と答えると、
「では敷居の高さを一間(1.8メートル)に上げたらどうか?」と武蔵。
「それは怖いです」と少年。
「では敷居の幅を三尺(90センチ)にすれば?」
「それなら渡れます」
「では三尺幅の板を姫路城の天守閣から増位山の頂上へ渡したら?」
「とても無理です!」
 武蔵の眼がきらりと光る。
「それが見切りである。同じ三尺の板なら、高さが一尺(30センチ)だろうが百丈(300メートル)だろうが道理としては同じである。しかし百丈なら落ちれば死ぬという恐怖が生まれる。如何に恐怖心を克服するかが極意である」と言ったとか。
 つまりはそういうことで、傾倒した幅2メートルの石の上を歩く技量さえあれば、高さが15メートルあろうが関係ないのである。登って振り返ると、的岩の軸線上に四阿山の山頂が指し示されていた。何かの啓示を受けた気がした。

 古永井分岐を過ぎると山頂が眼前に迫り、山頂の祠や先客の姿までもが肉眼で確認できる。
 山頂の信州祠は真新しかった。聞けば2015年の開山祭の折、新築したらしい。2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』の効果だろうか。岩櫃山の登山口や、名胡桃城跡など、真田家所縁の地の整備がこのところ活発である。ドラマの視聴率も好調で、役者さんのファンも拡充しているとか。
 信州祠を後にして少し歩くと、四阿山山頂の標柱と上州祠があった。こちらは信州祠とは対照的に、かなり老朽化していた。真田と羽尾の盛衰そのままを象徴しているかのようで感慨深い。
 上州祠の裏の細長い山頂に腰を下ろし、カップラーメンとコーヒーでしばしの休息を容れた。
 私が登頂したとき先客は三人だったが、その後二百人ほどの学生が登ってきて、ひどく賑やかになった。そのうち山頂から人が溢れて転げ落ちんばかりになったので、荷物を纏めて退散した。

 今年も例年のごとく、山岳遭難のニュースが相次いでいる。
 昨年は山への情熱が失われてしまったが、今年は再び困難な山に立ち向かえるだろうか。山岳遭難を回避するには、いうまでもなく山の難度と自らの技量を鑑み、登れるか否かを見切らねばならない。遭難しないための絶対の手段は山に登らないことだが、登る以上は戦国乱世に身を投じるくらいの想像力と覚悟が必要だろう。
 帰りは花童子(げどうじ)の宮跡経由で駐車場へ戻った。

●登山データ
2016年5月18日(水曜日)
鳥居峠林道終点(標高1,590M)→四阿山(標高2,354M)、標高差764M

鳥居峠林道終点(8時10分出発)→的岩(8時30分/20分休憩)→古永井分岐(9時28分)→嬬恋清水分岐(10時05分)→四阿山(10時25分)、登り所要時間:2時間15分
山頂滞在時間:45分
四阿山(11時10分)→古永井分岐(11時53分)→花童子の宮跡(12時17分)→鳥居峠林道終点(12時40分)、下り所要時間:1時間30分
全行程:4時間30分

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