Practice Makes Perfect/観音山・日尾城跡(諏訪部定勝と妙喜尼)
秩父札所31番・観音院が出発点
観音院山門
甲殻に蔽われた要害・観音院
弘法大師が爪で彫ったという磨崖仏
新生代第3紀(約17,000年前)の地層
天を突くような観音山
階段の登山道 観音山山頂
観音山山頂(標高689M) 眼下に倉尾の集落
山頂を下山して牛首峠へ向かう 日尾城址跡の標識
レモンジュース並みの酸性雨が降るという意味だろうか。所々に環境保護啓蒙の掲示があり地元中学校生徒会によって管理されているようだ かつて武田軍との攻防があったという日尾城址
頼もしき戦国夫婦が護っていた

馬上城山八幡と日尾城山八幡が祀られている
巨岩を斧で立ち割ったような牛首峠

観音山・日尾城跡(諏訪部定勝と妙喜尼)

2015年10月7日(水曜日)

 甲斐の武田信玄と言えば戦国時代最強と謳われた英雄的武将だが、甲斐と国境を接する当時の秩父人にとっては迷惑この上ない悪魔の様な隣人だった。伝承には『信玄焼き』という。
 当時武田と国を接してせめぎあっていたのは、越後の上杉謙信と関東の北条氏康である。秩父は北条領だったため、信玄にとっては敵国だった。
 北条氏康の息子・氏邦の護る寄居町の鉢形城を攻撃する際、越境して秩父に侵攻した武田軍は、こともあろうに秩父神社をはじめ多くの寺社を焼き払い、秩父を蹂躙したのである。

 戦国時代より遥か昔から、秩父の吉田町には桓武天皇の流れをくむ坂東八平氏の一人・秩父氏という豪族がおり、源平合戦で活躍した畠山重忠や河越重頼、江戸重長ら多くの鎌倉武士を輩出した。その血脈はやがて関東全土に広がって行き、いわば秩父は関東武士の聖地のはずなのだが、戦国時代以降どうしたわけか、それを彷彿させる痕跡はほとんど残っていない。
 山城跡はいくつかあるが、今ではどれも山に埋もれ、城跡というよりは砦に近く、こんな不便なものが当時どれだけ現実的に機能したのか、現代人にとって想像することは容易ではない。
 しかし調べてゆくうちに、ちょっと興味深い城跡があることが分かった。札所31番観音院にも近い日尾城跡である。

 31番観音院は、巨大な岩の甲殻に蔽われた秩父観音霊場の中でも突出した要害であり、この寺の裏には天空を突き上げるような観音山がある。
 急峻な山の見た目の割に緩い登山道を登り詰めると、山頂は切れ落ちた狭い断崖上で見晴らしが好い。ここで少し休憩し、登ってきた道を下り、途中の分岐を観音院とは反対方向に歩けば小鹿野町と旧吉田町(現秩父市吉田)を結ぶ牛首峠に至る。この峠の手前にひっそりと佇んでいるのが日尾城跡である。
 佇んでいると言っても往時を偲ぶ痕跡は少なく、すっかり樹木に蔽われた鬱蒼とした狭い敷地に、ふたつの祠と日尾城跡と書かれた石碑があるだけである。これがどういった城なのかという解説看板すらない。
 少し下ると巨大な岩を斧で立ち割ったような狭い天然の山門が現れる。これが牛首峠である。
 ここを頭上から扼する形で日尾城跡があり、戦国時代、ここで武田軍との攻防戦が繰り広げられたという。それも当時城に立て籠もって采配を揮ったのが、城主ならぬ、その奥方だそうで、見事武田軍を退けたというから興味深い。

 日尾城は北条領最西端の、武田の侵攻を防ぐ要衝を担っており、この城を護る部将が北条軍の中でも勇将で知られた諏訪部定勝だった。しかし彼には大きな欠点があり、大の酒好きなうえ、すぐに泥酔した。
 そんな折に攻めてきたのが、武田四天王の一人・山県昌景である。三方ヶ原の戦いにおいて徳川軍を蹴散らし、逃げる徳川家康を恐怖のあまり脱糞させたという猛将だ。そんな武田の猛攻に立ち向かったのが、諏訪部の妻・妙喜尼である。
 戦国時代の女傑は少なくないが、この秩父氏発祥の地である山奥に、利家とまつにも劣らない頼もしき戦国夫婦が居たことは、何とも興味深い話であり、同時に地元でもほとんど知られていないのは如何にも寂しい限りである。

●登山データ
2015年10月7日(水曜日)
観音院駐車場(標高395M)→観音山(標高698M)、標高差303M

観音院駐車場(7時30分出発)→観音院(7時40分)→牛首峠分岐(8時02分)→観音山山頂(8時25分)、登り所要時間:55分
山頂滞在時間:15分
観音山山頂(8時40分)→牛首峠分岐(8時55分)→日尾城跡(9時20分)→牛首峠(9時33分)→観音院駐車場(10時00分)、下り所要時間:1時間20分
全行程:2時間30分

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