Practice Makes Perfect/岩櫃山
一本松駐車場
真田氏の旗印・六文銭が立つ
平沢登山口
真田氏の居城となった岩櫃城跡
尾根通りから山頂を目指す 天狗岩
赤岩通り分岐
天狗の蹴上げ岩
岩が多くなってきた 岩のピークに出たが山頂ではない
振り返って山頂を臨む
鎖の岩場を登れば山頂だ
岩櫃山山頂(標高803M)
山頂は狭い
山頂から下界を睥睨(へいげい)する
御厩
鎖のある岩場を降りる
天狗の架け橋

古谷の集落から見上げる岩櫃山
古谷から赤岩通りに入る
敗亡の危機にあった武田勝頼を迎えるべく真田昌幸が建てた潜竜院跡。結局勝頼は来ずに武田は滅亡した
岩櫃城の支城である郷原城址

岩櫃山(いわびつやま)

2014年11月5日(水曜日)

 婆娑羅(バサラ)とは、南北朝時代に流行りだした、規則や常識に囚われない粋な考え方や行為、或いは権力への反逆的態度を表す言葉である。
『戦国BASARA』に端を発した一大暦女ブームにより、荒唐無稽にアレンジされた伊達政宗や真田幸村といった、四百年前の戦国武将が一躍脚光を浴びるようになり、その人気はゲームやアニメに止まらず、実際にゆかりの地を訪れる聖地巡礼となって、若い世代の観光活性化現象にまで発展した。
 真田幸村は、霧隠才蔵、猿飛佐助ら『真田十勇士』を率いる伝説的ヒーローで、その最期の闘いとなった大坂の陣では、要塞真田丸を以って徳川方に甚大な損害を与え、敵将徳川家康の本陣に自ら斬り込む等、戦後『日の本一の兵(つわもの)』と称され、後世幾多の小説やドラマに取り上げられた。

 真田氏は元々長野県上田市真田の地方豪族で、幸村の祖父・幸隆を祖とし、幸村の父・昌幸の時代には、上田から群馬県沼田市までを所領としていた。主な城は、長野県の上田城と砥石城、群馬県の沼田城と岩櫃城であり、周囲を武田信玄、上杉謙信、北条氏康らの列強に取り囲まれる激流地帯だった。幸隆も昌幸も家を護る為、過酷な運命に翻弄された。
 岩櫃山はその山容もさることながら、真田氏の岩櫃城跡があることで、歴史探訪に訪れる人も多く、2016年のNHK大河ドラマが『真田丸』に決まったことで、更なる人気の昂揚が予想される。

 関越道の渋川インターから国道145号線を草津方面へと向かい、岩櫃山入口の標識に従って上って行くと平沢集落の登山口に着く。登山口直近の一本松駐車場には10台程度、そのすぐ下には50台ほど置ける舗装された第二駐車場が整備されている。
 登山口には案内小屋が建っており、観光パンフレットが置かれているが、登山届のポストはない。
 岩櫃城跡の標識に従って登ると、10分ほどで本丸跡に着く。岩櫃城は関ヶ原合戦後に破却されてしまい、現在では痕跡しか残っていない。
 元来は上杉謙信の属城で、斉藤摂津守が城代を勤めていたが、上州滋野一族で真田とは同族の羽尾幸光がたった一人で奪い、真田昌幸に譲ったとされる。昌幸は羽尾を城代とするが、のち謀反の嫌疑を懸けて殺し、昌幸の叔父で家老の矢沢頼綱を城代に据えた。若かりし幸村とその兄信幸が大叔父の元で過ごしたのもこの頃である。

 城を後にして山頂へ向かう。天狗岩、天狗の蹴上げ岩を経て、2本の鎖の垂れ下がった岩を登れば山頂である。駐車場からゆっくり登っても一時間と掛からない。
 山頂は狭い断崖上のため、周囲を鎖の柵で囲われている。眼下には登って来たのとは反対側の古谷の集落が睥睨(へいげい)できる。

 10分休憩して下山に移る。登って来たのとは反対側の蜜岩通りに降りる。
 御厩という岩の穴をくぐり、鷹の巣遺跡に寄り道し、今回のハイライトともいえる難所、天狗の架け橋に至る。高さ3メートル幅30センチほどの岩の橋だが、距離は2メートル程なので特にどうということもない。不安なら巻き道も用意されている。
 ここで下から登って来た50人ほどの老人パーティーに出くわしてしまった。困難な岩場であり、道幅も狭く、一列にぞろぞろと登ってくる上、先頭のリーダー格の機転も利かず、結局やり過ごすのに10分も待たされた。

 古谷集落の貯水タンクが見えれば一旦登山は終了である。
 ここからJRの線路沿いに戻ってもいいのだが、赤岩登山口から岩櫃城跡まで登り返すことにした。集落から出て少し歩くと、広く開拓された場所に出る。石垣が積まれ、岩櫃の幟がずらりと立ち並んでいる。案内看板を読むと潜竜院跡とあった。
 武田信玄の死後、後継者となった武田勝頼と、織田信長・徳川家康の連合軍との間で長篠の戦いが起こる。かつて戦国最強と謳われた武田騎馬隊も、織田徳川連合軍の三千丁の鉄砲の前に壊滅する。この闘いで武田軍に属していた真田家当主の信綱と弟の昌輝が討ち死にし、その後多くの離反者も出て、勝頼は敗亡を余儀なくされた。
 兄二人を失い真田家を継いだ昌幸は、勝頼に対し、岩櫃城に引き篭もって再起を期すよう提案する。勝頼も受け入れたため、昌幸は城代の矢沢頼綱に、兵糧の備蓄と城の防備を増強すると共に、勝頼の居館建設を命じた。それが潜竜院である。
 結局勝頼は武田家譜代重臣である小山田信成の進言により、小山田の居城・岩殿城に向かい、その挙句小山田の裏切りに遭い、大菩薩嶺近くの天目山まで逃げた末に自害し、武田は滅亡した。

 潜竜院から少し登ると岩櫃城の支城の郷原城址があり、岩櫃山全体が戦国要塞だったことが窺える。
 この辺りから落葉が多くなり、登山道の踏み跡が分からなくなってくる。登山道を示すテープもなく、地形を見ながら判断するしかない。軽いハイキングのつもりだったが、唐突にルートファインディング能力を要求され、いささか面食らった。支尾根の踏み痕に迷い込んだりしながら、どうにか尾根通りの合流点まで辿りついた。再び岩櫃城址に立ち寄って、一本松駐車場に戻った。

 真田家は徳川方に付いた信之(信幸から改名)が継いだ。彼は関ヶ原以降、父と弟のことで苦労したが、隠居後も家督争いが起こったことで再び藩政を見る羽目となり、93歳で死ぬまで苦労した。家系は現在も続いている。
 真田幸村と嫡男大助は大坂夏の陣で死んだ。
 しかし次男大八は、姉阿梅(おうめ)と共に、夏の陣道明寺の闘いの最中、敵軍である伊達政宗の家老片倉小十郎重綱に保護された。
 後に徳川幕府から追求を受けるが、伊達政宗はそいつは石に当たって死んだと愚にも付かない言い逃れをし、大八は片倉守信として生き延びた。家康の死後真田姓に戻し、仙台真田家として現在に至っている。
 徳川を苦しめた真田の子女を密かに擁護した政宗のメリットとは何だったのか。天下に覇を唱えようとしながら時勢を逸した彼の、次なる戦乱のカードだったのか、それとも将軍家に対する痛烈な嫌がらせだったのか。彼の婆娑羅(BASARA)ぶりが窺えるエピソードである。

●登山データ
2014年11月5日(水曜日)
一本松駐車場(標高499M)→岩櫃山(標高803M)、標高差304M

一本松駐車場(8時45分出発)→尾根通り→岩櫃城跡(8時55分/休憩5分)→赤岩通り分岐(9時15分)→天狗の蹴上げ岩→岩櫃山山頂(9時40分)、所要時間:55分
山頂滞在時間:10分
岩櫃山山頂(9時50分)→鷹の巣遺跡(10時03分/休憩5分)→天狗の架け橋(10時10分/休憩10分)→蜜岩通り登山口(10時35分)→潜竜院跡(10時50分)→郷原城跡(11時00分)→赤岩通り分岐(11時30分)→岩櫃城跡(11時45分)→一本松駐車場(11時55分到着)、下り所要時間:2時間05分
全行程:3時間10分

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