Practice Makes Perfect/槍ヶ岳(第2日目)
暁闇の槍沢カール

常念岳から昇る御来光
払暁の大喰岳(おおばみだけ)
さらば槍ヶ岳
凍った雪で舗装された槍沢カールを直降する

ツバメ岩
ババ平
!?、二ノ俣の橋板が落とされている

槍ヶ岳(上高地ルート第2日目)

2009年10月23日(金曜日)

 地獄のブタ小屋に放り込まれたかのような鼾(いびき)だった。もともと寝付きの悪い私はこれではとても眠れない。
 相室である他の二人も眠れないだろうと思っていたところ、突如カッキーン、カッキーンとハーケンを打ち込む金属音が鳴り出した。信じ難いことにそれはこの部屋の暗闇の中で起こっていた。
 夜の部屋でブタが岩壁をアタックしているあまりの怪異に慄然とし、寝る前にひとりが予め断っていた歯ぎしりと気付くのに、しばらくの時間を要した。
 歯ぎしりにこんなバリエーションがあるのも新発見だったし、どうやってその音を出しているのか興味がないでもないが、事態が一層深刻になったことは間違いなかった。部屋の片隅ではブタが、もう一方ではハーケンが、部屋を蹂躙(じゅうりん)していた。
 遂に昨夜に続いて今夜も一睡もできないかと憤死寸前にまで追い込まれたが、明け方近くになって意識を失った。

 山小屋のスタッフの起き出した気配に意識が戻った。一時間ほど眠ったらしい。
 カメラを手にひとり外へ出てみる。
 払暁前の気温は−5℃。足許の雪は凍てついている。常念岳の向こうには別にどうということもない雲海が滞留し、遠く富士山まで効く視界も、ただそれだけのことでしかない。やがて常念岳からチマッとした御来光が昇ったが、大喰岳(おおばみだけ)の銀嶺をモルゲンロート(朝焼け)に染めるでもなく、播隆上人が取り憑かれたというブロッケン現象を起こすでもなく、それは普段どこでも見られる、ただの朝日以外の何でもなかった。

 今まで、できる限り日帰り登山を心掛けてきたが、それのできない行程では山小屋を利用する以外、現状の方法がない。
 或いは人に言わせれば、山小屋で寝られないと文句を言うこと自体、神に唾する冒涜であり、いっぱしの登山者としての資質に欠けること甚だしいと批判されても一駁(いちばく)もないところだが、もちろんそれを筋違いにどこに訴えるつもりもないし、ただ今後どうするかの贅沢かもしれない悩みとしているに過ぎない。

 安直な登山者が急増して山に迷惑を掛ける原因として、山小屋不要の極論を持ち出す人がいたり、山小屋の豪奢(ごうしゃ)化それ自体が山への背徳だとする激語も中にはあるが、山小屋は現存するのであり、誰でも利用できる現状から、それの活用をベースに考えるのが自然であり、山小屋の定義や実情を辿ることもあながち無駄ではないだろう。ともかく朝食を済ませ、6時55分に下山した。

 昨日の雪はアイゼンなしでも登れたが、下山でこう凍っていては、明らかに履いた方が賢明である。アイゼンを履いて、凍った槍沢カールを降下する。
 足の潜らない硬い雪は、さながら歩きにくいガレ場に施された舗装のようで実に歩きやすい。夏山登山よりも歩きやすく、こういう雪なら冬山登山も楽しいかもしれないと、昨夜の憂いも忘れる足取りだった。
 スキーでも色々な雪質を滑れるようになるには場数が必要だが、それは登山に於いても同様で、この春に体験した残雪登山とはまた違った雪質に、雪歩きの面白さを発見できた。カールの踏み痕を無視して、舗装の雪原を直降した。

 昨日登って来る途中も槍沢の対岸で何度か落石を目撃したが、この日の落石は結構身近だった。
 東鎌尾根のヒュッテ大槍からの下山道に、立て続けに落石したのである。直径30センチほどの石が5つ6つ、ガラガラと登山道を襲った。実はこの日、このルートを降りようかとも考えていたのである。しかし前日頻繁に見た落石と、このルートの急斜面を見て躊躇い、傾斜の緩い槍沢カールを選んだものに過ぎない。もしあそこを降りていたら、ドンピシャのタイミングで或いは死んでいたかもしれない。

 天狗原分岐まで着けば雪もすっかりなくなり、後は上高地までの15キロ、ほとんど勾配のない道が駘蕩(たいとう)と続く。振り返っても既に槍ヶ岳の姿はなく、多少物足りない幕切れである。
 上高地に近付くに連れ、人ごみが多くなってくる。どうやらこの辺りの紅葉がちょうど見頃と一般認識されているようで、やがて大変な賑わいを呈してきた。
 一般観光客のほとんどは既にコートやジャンバーの冬支度であり、ただ一人半袖Tシャツの私は、さしずめ夏山登山の遭難者が、時空を越えた今になって降りて来たかのようだった。その自嘲に何か場違いな寂寥(せきりょう)感すら覚える。
 道幅いっぱいに広がって登ってくる我が物顔のハイカー風の中高年団体や、それをも押しのけて登ってくる関係車両の後塵に身を避けつつ、11時40分、どうにか昼前にバス停にたどり着いた。
 既にスタンバイしていたバスは、私が座席に着くと同時に出発し、喧騒の上高地から脱出した。
 食事処しもまきの温泉に汗を流し、昼食の蕎麦を食べて帰宅の途についた。

●登山データ
2009年10月23日(金曜日)
槍ヶ岳山荘(標高3,080M)→上高地バスターミナル(標高1,505M)、標高差1,575M

槍ヶ岳山荘(6時55分下山開始)→播隆窟(7時20分)→天狗原分岐(7時50分)→槍沢ロッヂ(8時50分)→横尾山荘(9時50分)→徳沢園(10時30分)→明神館(11時05分)→上高地バスターミナル(11時40分到着)、下り所要時間:4時間45分
2日間の全行程:13時間20分

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