Practice Makes Perfect/唐松岳・五竜岳(八方尾根ルート日帰り縦走)
八方尾根・丸山ケルン付近から臨む五竜岳(標高2,814M)

八方尾根スキー場・黒菱ゲレンデから登山開始
いきなりの蹉跌。林道ゲートが鎖錠されている。
ゲレンデに狂暴な牛がいるため立入り禁止、リフトを利用するよう書かれている。
リフト営業開始まで3時間近くあるのでゲレンデを突破する。狂暴な牛達をまったく無視して登る。
白馬三山に朝日が差す。
左から白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳
八方尾根スキー場最上部、リーゼングラート。
八方池山荘(左)とグラートクワッドリフト屋舎
八方山ケルンと五竜岳。左奥は鹿島槍ヶ岳
リーゼングラートも眼下に遠ざかる
五竜岳と唐松岳(右)

八方池から見る不帰嶮(かえらずのけん/左端)、天狗尾根(中央)、白馬三山(右端の3つ)

白馬三山に雲が懸かってきた(丸山ケルン)
上部には崩落の危険箇所もある
唐松岳頂上山荘が見えてきた
山荘を回り込むと唐松岳山頂だ
唐松岳山頂(標高2,696M)
不帰嶮から天狗尾根へと続く稜線
唐松岳頂上山荘まで下って五竜岳を目指す
唐松岳と五竜岳の間に立ちはだかるアップダウン
ここに来て北アルプスらしい岩場になってきた
降下してきた唐松岳(左)と大黒岳を振り返る

鞍部から白岳への登り
白岳を越えると眼下に五竜山荘が現れる
五竜岳本体への登りは既に雲の中だ
○、×、→のペンキマークだけが頼りで山頂は見えない
よく見えない
五竜岳山頂
五竜岳山頂(標高2,814M)
富山側(左)から吹き上げる冷風で猛烈に雲が生成される
リフトの営業終了に間に合ったので、お金を払って下山

唐松岳・五竜岳(八方尾根ルート日帰り縦走)

2009年9月16日(水曜日)

 辺り一帯すっかりガスに覆われてしまい、どこが目的とする山頂なのか皆目分からなかった。北アルプス特有なのか、昨年登った穂高岳と同様、風化と崩壊の限りを尽くした岩場を、岩に描かれた○と×のペンキマークだけを頼りに、一人よじ登って行く気分はなんとも心細かった。
 先月登った南アルプス最高峰の北岳でも、一般登山者が想い描く範疇を越えるほど危険なものではなかったが、どうも北アルプスというのは明らかに異質である。その荒涼とした風景は精神を蝕み、空気の薄壁一枚向こうに死の世界が接している緊迫感がある。
 視界不良の岩場にしばし呆然としていると、鎖の付いた岩の上から何者かが降りて来た。
 それは人ではなかった。


 夜中の1時半に家を出て、八方尾根スキー場の黒菱(くろびし)ゲレンデに着いたのが、まだ明方薄暗い5時前だった。おそらく冬は初級者用迂回コースに充てられるであろう黒菱林道を上り詰めた、カフェテリア黒菱前の駐車場である。車中で食事を摂りながら夜明けを待つことにした。
 目の前は有名な黒菱のコブ斜面である。無論今は雪はない。上達嗜好のスキーヤーにとって垂涎の超上級コースであり、私も何度か滑ったことがある。
 しかし、こうして雪のない時期に見ると意外に潅木が多い。夏のスキー場といえば、遠くからでもそれと分かるほど木が少ないものだが、冬にはここを人が滑るのかと俄かには信じ難いほど藪に覆われている。
 少し明るくなったのでゲレンデの写真を撮ろうと車外に出てみると、ゲレンデに何かうずくまっていることに迂闊にも初めて気が付いた。そいつは私がここに来た時からずっと、こちらを観察していたのである。

 牛である。
 この黒菱ゲレンデは牧場に使われていたのだ。よく見ると結構いる。
 予定していたここからの登山路は、まず黒菱ゲレンデを横切る林道からはじまるのだが、入り口まで行ってみると、林道のゲートは閉鎖鎖錠されていた。
『狂暴な牛がいるため立入り禁止、リフトを利用してください』との旨が書かれている。
 いきなりの蹉跌(さてつ)である。リフトの営業開始時刻は8時15分とある。つまりこの駐車場はリフト客用で、早朝から歩いて登る登山者用ではなかったのである。

 ネットでの先達の情報を鵜呑みにしてきたわけだが、なるほど地図にはこの区間のコース表示は描かれていない。そのことには気付いていたのだが、今となっては是非もなかった。このゲレンデを突っ切る以外他に登山路もなさそうなので、予定通りここから登山を強行する。
 仕度を整え、5時30分、ゲレンデの強行突破を試みた。ゲートの下の隙間をくぐる。
 不意の闖入者(ちんにゅうしゃ)に牛が一斉に視線を向ける。よく見ると50頭ほどいる。
 恐怖を感じてはいけない。感じれば察知されるだろう。ここは無視を決め込んで、あたかも空気と同化したかのように登ってゆく。
 牛の視線は私を空気と思っていないのは明らかだが、どうやら襲ってくる気配もない。
 狂暴とはいささかオーバーだろう。せいぜい服を汚されたとか、顔を舐められたとか、その程度のトラブル以上ではないだろう。
 何の根拠もなく、そんな莫迦(ばか)なことあるはずがないと決め込むことを正常性バイアスと言う。ただ空気となって登り続け、何事もなく出口のゲートまでたどり着いた。

 黒菱を登りきると、八方尾根最上部コースのリーゼングラートである。ここも藪が深く、藪の中に大きくジグザグの登山道がつけてある。
 このコースは長野オリンピックでも一悶着あった国立公園第一種特別地域で、リフトこそ架かっているものの、伐採などの余計な手入れはできないのだろう。
 登山道には木道が敷かれているが、ふと足許が滑った。
 おやっと思った。
 どうやら前夜雨が降って、それが凍っているらしい。これから気温が上昇して溶けてくれればいいが、このままなら予定のペースで歩くのは難しくなる。結局は杞憂に終わるのだが、後で聞いた話では、五竜と鹿島槍の間は凍結していて縦走は困難とのことだった。

 この八方尾根を登り詰めたところが唐松岳(標高2,696M)である。この尾根は距離こそ長いが、勾配はかなり緩い。黒菱と唐松岳の標高差と、投影上の水平距離から割り出した平均斜度は概ね12度であり、スキー場の急斜面とはだいぶイメージが違っている。
 斜度が緩いので、リーゼングラートから上の登山道はジグザグではなく、尾根の直登である。

 途中、八方池というビューポイントがある。
 池自体は小さなものだが、白馬三山から不帰嶮(かえらずのけん)までの後立山(うしろたてやま)連峰を水面に映すことから、夏山リフトを使ったハイキングコースのハイライト部になっている。ここで写真撮影を兼ねた5分間の道草をした。
 この日の予定は、まず八方尾根のあるじたる唐松岳に登り、その後、隣の五竜岳(標高2,814M)を往復して、元の黒菱に帰る日帰り行程である。地図上参考タイムは14時間45分で、過去体験したことのない長さであり、設定した目標タイムの12時間も過去最長である。
 今日はバス時刻もないし、夕方たどり着くところは、よく知ったスキー場のゴルフコースのようなゲレンデと多寡をくくっていたのだが、意外な藪と、ゲートを閉ざした狂暴な牛を見てからは、一抹の不安も抱かないわけには行かなかった。

 唐松岳頂上山荘まで3時間の読みで、その成否如何をスケジュール全体の試金石としていたが、まずは予定通り、2時間55分で到達した。山頂まで残り20分の距離である。
 前述の通りここまでは実に緩やかな登山道で、危険極まりないイメージの強い北アルプスの一角に、直登して来られる珍しいコースである。
 唐松岳山頂に8時45分に到着。10分間荷物を降ろしての食事休憩を採った。
 8時半頃から雲が湧き出していたが、遂に五竜の山頂にも雲が懸かって来た。この様子では五竜岳からの眺望は望めそうもなかった。
 一旦山荘まで下山して、五竜岳への稜線に突入する。

 この稜線には特に名前は付いていないようだが、見たところかなりの距離がある。とにかく一度、唐松岳と五竜岳の鞍部まで下って、そこからまた登り返さねばならない。
 一年前だったら精神的に耐えられずに嘔吐しそうな光景だが、昨年穂高岳の大キレットをやっているので、かろうじて心の平衡を保っていられた。
 最初の岩場の降下は、鎖こそ施してあるものの、足許の岩は脆(もろ)そうで、ここに来てさすが北アルプスの侮れない片鱗を見せはじめた。空気の薄壁一枚の向こうには死の世界が接している。

 最低鞍部までかなりの下りで、帰りにはこれを登り返すのかと思うと甚だ憂鬱になる。一旦穏やかに変わった鞍部の登山路も終わり、五竜山荘を過ぎた最後の登りは、穂高岳と同質の風化と崩壊の限りを尽くした岩場だった。
 この頃にはあたり一面のガスに捲かれてしまい、岩場に入ってしまうと一体どこが道なのか分からない。
 しかしよく見ると、ちゃんと○、×、→と岩にペンキで描かれており、これを最大限の親切として登って行くわけだが、視界は10メートルほどで、山頂の姿はおろか、登山路の方向性すら把握できなかった。

 視界の悪さにしばし呆然としていると、鎖の付いている岩の上から一匹の白い犬が降りて来た。ヤマトタケルを導いた白狼かと見紛えた。
 鎖をつかめない犬が鎖場を降りて来る現実にしばし呆然とした。急峻な岩場を頭を下に四本足で探りながら、慎重に降りてくる。どのみち彼が降りきるまでこちらは登れないので、そのまましばらく見守った。
 鹿などは器用に岩場を駆け回るらしいが、犬はどうなのか。以前テレビで、崖から動けなくなって救助された崖っ淵犬なんてのがいたが、犬種などによる個体差があるということだろうか。
 彼には主人がいた。外国の青年だった。
「凄い犬ですね」
 と日本語で云ってみると、彼は流暢な日本語で、頑張ってくださいと励ましてくれた。
 私はこういう場合でも、山頂まであとどれくらいかなどとは訊かない。地図でコースタイムは分かっているし、時計を見れば見当の付くことである。つまり愚問である。見えない時は見えないからこその楽しみもある。

 おもむろに山頂に到着した。徐々に山頂が近付くという高揚感もないまま、ガスの中で唐突に山頂に到着した。何故そうわかったかと言えば、杭に山頂と書いてあったからである。そこから先は×印のペンキマークがやたらと描かれていた。
 昔、Macintoshで夜な夜なやったゲーム『DOOMU』を彷彿させた。
 日本のゲームではボスキャラとの闘いで劇的に音楽が盛り上がり、倒せば敵は消滅し、勝利のファンファーレが響き渡る。しかし、このアメリカのゲームはそういった過度の演出を一切排除したリアルな死闘に終始し、ステージから脱出する扉を護る最後の敵を倒しても何も起こらない。敵の死体はいつまでもそのままで、出口の扉が虚しく目の前にあるだけである。何となくそれを彷彿させる山頂だった。

 山頂からはガスで何も見えない。
 多少の望みを賭けて40分間の食事休憩を容れたが、結局雲はそのまま霽(は)れなかった。
 12時30分、下山に移る。黒菱駐車場への到着予定時刻は18時00分である。
 ここから唐松岳頂上山荘まで、一度下ってからの登り返しになる。下りは問題ないにしても、最低鞍部から見上げる登り返しは、充分心をへし折るものだった。今更ながら、ここは一日に二度も通るようなところではないという後悔に襲われた。
 富山側から吹き上げてくる風が冷たい。長野側から山肌に沿って上昇して来た空気が、稜線の襞(ひだ)で冷風に触れて凝結し、猛烈な勢いで雲が生成されて行く。
 上着は雨具も入れてあと三着背負っているが、もし一晩中ここにいたら凍死するかもしれない。とにかく長野側に出ればこの寒さからは逃れられる。頂上山荘まで到達できれば、たとえ真っ暗になろうと下山できると、折れた心を奮い立たせて必死に登った。

 唐松岳頂上山荘に着いたのが14時55分。辛い登りだったが、それでも時間的には何の事はない予定通りだった。後は八方尾根スキー場までひたすら下るのみである。
 この下り、距離こそ長いが勾配が緩やかなので、その気になればかなりスピードアップできる。唐松岳頂上山荘から八方池山荘までの地図上参考タイムは3時間だが、1時間15分で到着した。
 これは自分でも予想を上回るタイムだったが、コブ斜面とトリックスラロームで培ったバランス能力がものをいったと思われる。足許の悪い石の上を瞬時にピンポイントで重心で踏み、ほとんど駆けるように降りて来た。
 八方池山荘の前はリフト乗り場である。到着時刻は16時10分で、リフトはまだ動いていた。営業終了時刻の16時30分に間に合った。
 乗る方はお急ぎくださいとアナウンスされていた。
 迷わずに、乗った。
タカネマツムシソウ タムラソウ タテヤマウツボグサ

●登山データ
2009年9月16日(水曜日)
黒菱駐車場(標高1,500M)→五竜岳山頂(標高2,814M)、標高差1,314M

黒菱駐車場(5時30分出発)→八方池山荘(6時10分)→八方池(6時30分/休憩5分)→唐松岳頂上山荘(8時25分)→唐松岳山頂(8時45分到着)、登り所要時間:3時間15分
山頂滞在時間:10分
唐松岳山頂(8時55分出発)→唐松岳頂上山荘(9時05分)→五竜山荘(10時50分)→五竜岳山頂(11時50分到着)、唐松岳からの所要時間:2時間55分
黒菱駐車場からの登り所要時間:6時間20分
山頂滞在時間:40分
五竜岳山頂(12時30分下山開始)→五竜山荘(13時00分)→唐松岳頂上山荘(14時55分)→八方池山荘・リフト乗り場(16時10分到着)、下り所要時間:3時間40分
全行程:10時間40分

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