Practice Makes Perfect/北岳
南アルプス最高峰にして、国内標高第2位の北岳(標高3,193M)

広河原バス停から大樺沢出合のゲートを抜けて登山開始
大樺沢(おおかんばさわ)の名もなき滝
大樺沢コース前半は緩やかな沢登りだ
大雪渓が現れるとガレ場の急登コースに変貌
雪渓の右側の夏道を登る
バットレス真下の急斜面。落石が怖い
北岳バットレス(胸壁)
うんざりするガレ場。結構辛い

ガレ場の急登が終わると丸太梯子の連続になる
八本歯のコルから吊尾根へ向けての丸太梯子
吊尾根分岐
北岳山頂への最後の登り
山頂に到着。吊尾根と間ノ岳を振り返る
山頂の様子
北岳山荘
北岳山荘から八本歯のコルへ戻るトラバース道

北岳(日帰り登山)

2009年8月19日(水曜日)

 南アルプス最高峰にして国内標高第2位の北岳(標高3,193M)が今回のターゲットである。
 登山口である広河原バス停から山頂までの標高差は1,673メートルと、私のこれまでの登山経歴の中でも、上高地から穂高岳までの1,685メートルに次ぐ長大さとなる。
 前夜ほとんど睡眠を採らずに、この標高差を登るというのも穂高以来で、その辛さは想像の外ではない。
 しかし登ってみて、もし調子がよければ北岳と稜線隣りの間ノ岳(あいのだけ)まで足を伸ばす日帰り縦走計画も視野には置いていた。

 夜中の1時半に秩父の自宅を出発して、芦安の駐車場に3時20分に到着した。
 この時期、駐車場の係員は午前2時から出ているそうで、知らないと真っ暗な山道にひとり佇んでいる男の影に少なからずギクリとする。このような配慮を見たのは初めてである。
 案内された第3駐車場は平日にも拘わらず既に6割方は埋まっていた。ただ、そのうちの大半は山上の山小屋に居るのか人影はない。
 まだ夜中である。見上げると驚嘆するばかりの数の星が天空一面に瞬いていた。

 クルマで横になったが眠れもせず、そのうちにバスの時刻となった。
 上高地や乗鞍同様このエリアも通年マイカー規制が布かれていて、ここ芦安から登山口である広河原までバスで尚一時間の距離がある。
 マイカーはこの先の夜叉神峠まで入れるが、途中乗車ではバスの空席がない惧(おそ)れがあるため、始発の芦安から乗ることにした。
 バスの他に10人乗りの乗り合いタクシーがある。タクシー料金の方が100円高いが、バスより若干早いというメリットがある。時は金なりとばかりタクシーを選択したが、この時はまさか、これが後に命に関わる事態を招こうとは予想だにしなかった。

 5時10分、まずはタクシー隊3台が先発する。
 時刻表ではバスの広河原到着は6時11分となっているが、このタクシー部隊は5時50分に到着した。さすがに早い。
 トイレに寄って5時55分登山開始。
 大樺沢(おおかんばさわ)出合の遮断機を通り抜けて吊橋を渡る。渡ったところが広河原山荘で、ここで登山届を提出する。

 コースバリエーションはいくつかあるが、大樺沢から大雪渓の急登を抜けて、八本歯のコルへ這い上がる最短ルートを選択した。前半は水量のある大樺沢沿いを遡上する緩やかな森林コースだ。
 スタート地点からして既に標高1,500メートルを越えており、この夏の時期でも余計な体力を消耗するような蒸し暑さはない。一ヶ月前サウナのような秩父の低山で、アゴから汗を滴らせながら登った苦悩を思い返すと、薄ら笑いすら漏れてくる快適さだ。

 出発から一時間半で大雪渓とバットレス(北岳胸壁)が見えてくる。この辺りに来ると、河原特有の歩きにくいガレ場となり、勾配も俄かに増してくる。
 この河原の石は多分にバットレスからの落石と思われ、下山してきたオジサンが、
「あと30分早ければ落石ショーを見られましたよ」
 と教えてくれたくらい身近な出来事のようだ。
 登山道は雪渓の右側、つまりバットレス直下を掠めており、見上げる胸壁が如何にも不気味だ。

 ようやく雪渓の急登を脱すると、今度は丸太梯子の連続になる。つまり梯子なしには登れない更なる急登区間である。
 ところで、この山は下から上まで一貫して小さなハエが多く、常にうるさく登山者に付きまとってくる。体にとまり、顔に止まり、放って置くと百匹くらいとまる。腕やシャツに止まったハエを手で払うと、数匹は逃げずに潰れて死ぬ。鬱陶しいことこの上ない。
 そして始末が悪いことに、この梯子の手すりがハエの日光浴の格好の溜まり場になっているのである。
 普通なら手を伸ばせばハエは敏感に逃げるものだが、ここのヤツらは可憐なまでに警戒心がないのか手摺を一掴みするごとに数匹潰れ死んでゆく。
 梯子の傾斜が急であり、踏み段も丸太なので、手摺をつかまないわけには行かないのだが、手で追い払おうとしても接触しない限り逃げもせず、接触すれば潰れて死ぬ。
 飛んだハエはわざわざ腕と腕時計の間に挟まって死ぬし、うっかり水でも飲もうものなら、開けたキャップの内側に入り、知らずに閉めればひねり潰してしまう。まるでハエの悪魔ベルゼバブの呪いである。

 八本歯のコルに出ても梯子は続き、しかも更に角度を増してくる。
 丸太の踏み段で足許が不安定なためか、それとも高所恐怖症によるものか、多くの人は手摺を使わず踏み段をつかんで四つん這いになって登っている。
 その光景はあたかもジェイコブズ・ラダー(天国への梯子)にしがみつく亡者のようでもある。

 吊尾根分岐に10時ちょうどに到着。ここまでは地図上参考タイムの80%で来ているが、脚の筋肉はかなり疲労している。途中休憩を採ることなく標高差1,600メートルを登ったことによる物理的限界が近付いていることは覆うべくもない。
 帰りのバス(及びタクシー)の最終時刻が17時なので、八本歯のコルを14時には降下したいが、それまでに北岳山頂の往復と間ノ岳の往復をするのはもはや不可能である。
 とりあえずこの吊尾根で荷物を降ろし昼食にする。エネルギーの補給としばしの休息を以って筋力の回復を待った。

 15分の休憩後、北岳山頂へ向かう。脚の疲労はまったく取れていない。脚が重い。
 山頂には10人ほどの人がいた。私も片隅に腰を降ろし、更にここで10分の休憩を容れた。
 山頂からの眺めは好い。雲で富士山こそ見えないものの、間ノ岳をはじめ、甲斐駒ヶ岳や仙丈ケ岳といった南アルプスの主要な山が眼前に立ち並ぶ。

 結局、間ノ岳への縦走は断念したが、時間の許す限り行けるところまで行ってみようと、間ノ岳との鞍部にある北岳山荘まで下った。
 北岳から間ノ岳へ掛けての稜線は緩やかなものだが、脚の疲労が甚だしく、この先の登りを行く気にはなれなかった。時間はまだ少しあるが、もはやここまでと荷を降ろした。この辺りでのんびり休憩してから下山と決めた。
 そう決めると、にわかに雲が湧いてきて、間ノ岳の姿を覆い隠してしまった。

 北岳山荘からは吊尾根に戻ることなく、八本歯のコルに通ずるトラバース道がある。
 この周辺は様々な高山植物が群生するマニア垂涎ゾーンで、ここにしか咲かない花、キタダケソウこそ時期を逸した観があるものの、キタダケトリカブトやキンロバイなど、尚多くの彩りが辺り一面を埋め尽くしている。

 時刻表によると、バス、タクシーとも、毎時ちょうど発車の1時間間隔とある。広河原に到着したのが15時10分だったので、次の便まで50分の待ち時間があることになる。
 ところが、バス停手前のゲートまで来ると、タクシー3台がそこで待っていた。
 運転手のひとりが、
「どこまでですか?」
 と訊くので、
「芦安」
 と答えると、ちょうど人数が揃ったのでどうぞ、と云う。
 こいつはラッキーである。人数が少なくて15時に発車しなかったのか。私は何のためらいもなくタクシーに乗り込んだ。

 2台のタクシーは団体客を乗せてすぐに出発したが、私が乗ったのは尚空席が二つ三つあるためか、まだ発車する様子がない。運転手が、
「もう少し待ってください」
 と云う。
 その後もポツポツ降りて来た登山者をつかまえては声を掛けるが、皆方向が違うようで、私以降の乗客がなかなか見つからなかった。
「あと5分したら出発します」
 が、10分経ってもそのままだった。

 やがて男が3人降りて来た。すかさず運転手が声をかける。しかし3人のうちの一人が、バスで行くからいい、と即座に断った。
 運転手は、バスと同じ料金に負けるとまで譲歩したが、男は眉ひとつ動かさない。
 私はこの男の態度を不審に思った。バスの出発まで尚20分ほどある。拒む理由がどこにあるだろうか。それを身を以って知ったのは、この十数分後のことだった。

 16時のバスの発車時刻も迫り、車内からブーイングがこぼれるようになった頃、ようやく一人を加え、やっと発車することになった。
 2台のタクシーは30分も前に出発しているのに、何故そちらに乗らなかったのかという不運が不満になり、それが車内の雰囲気としてあったのは当然だろう。運転手も当然それを察知しただろうし、それは彼が採った次の行動からも推測された。
 バスとタクシーとでは、発車時刻が同じでもスピードが違う。つまり到着時刻が早いという、そのアピールに及んだと思われる。
 恐ろしいスピードで走り出したのである。

 暗く狭いトンネルの直線など一体何キロ出ているのか、速度を想像で書くことは差し控えるが、とにかく凄まじいスピードである。
 この林道は確かにマイカー規制されているが、対向車は“絶対”に来ないのだろうか。それにもし、酔狂なハイカーが歩いていないとも限らないし、ブラインドコーナーの向こうには道の真ん中に大きな石が落ちているかもしれない。右側の谷底は一体何百メートルあるのか見当も付かないほど深く、ガードレールを突き破って転落すれば到底助からない。

 他のクルマのいないはずの道で、一台のクルマに追いついた。
 そのクルマが道を譲る。タクシーが脇を追い越す。
 そして遂に、ブラインドコーナーを曲がった出合頭、最悪のタイミングで、来ないはずの対向車が来たのである。
 双方急ブレーキ。車内に悲鳴があがった。

 ブレーキパッドのアスベストの焼け焦げた刺激臭が鼻腔を突き刺す。対向車も同業のタクシーだった。間一髪、衝突は免れた。
 上高地や乗鞍のマイカー規制、更にはかぐらスキー場の春スキー期間のシャトルバスなど、およそこの手のバスに乗って命の危険を感じることなどありえない。なぜなら狭い林道を大型バスで走る場合、無線連絡によって運行が管理されているのが普通だからである。
 しかし今回の場合そういった措置はなく、当然予想されるべき時刻表通りに運行される対向車に対し、何らの考慮もないシステムにはただ呆れるばかりだった。
 バスやタクシーに乗ることは、安易に他人に命を預けることであるという認識が私自身迂闊にも欠けていたわけだが、今回のことでいい教訓になった。
八本歯のコルから見た北岳バットレス

キンロバイ イブキジャコウソウ タカネナデシコ
ハクサンフウロ ミヤマミミナグサ キタダケトリカブト
ミネウスユキソウ タカネシオガマ ミヤママンネングサ
チシマギキョウ ミヤマアキノキリンソウ イブキトラノオ
クサボタン ソバナ ミヤマハナシノブ
シシウド タカネヤハズハハコ ヤマハハコ
タカネイブキボウフウ キツリフネ キタダケヨモギ

吊尾根分岐から北岳山荘、間ノ岳へと伸びる稜線

●登山データ
2009年8月19日(水曜日)
広河原バス停(標高1,520M)→北岳山頂(標高3,193M)、標高差1,673M

広河原バス停(5時55分出発)→大樺沢左俣コース→二俣(7時35分)→八本歯のコル(9時15分)→吊尾根分岐(10時00分/休憩15分)→北岳山頂(10時30分到着)、登り所要時間:4時間35分
山頂滞在時間:10分
北岳山頂(10時40分出発)→北岳山荘(11時20分)、所要時間40分
休憩及び周辺散策:40分
北岳山荘(12時00分下山開始)→トラバース道→八本歯のコル(12時50分)→大樺沢左俣コース→二俣(13時50分)→広河原バス停(15時10分到着)、下り所要時間:3時間10分
全行程:9時間15分

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