Practice Makes Perfect/木曽駒ケ岳
中央アルプス最高峰の木曽駒ケ岳(標高2,956M)。宝剣岳より臨む

駒ヶ岳ロープウェイで標高2,612Mの千畳敷カールに到着
ここから先は冬山完全装備で
すっかり雲の中で宝剣岳は見えない
オットセイ岩横の斜面(八丁坂)を直登する
八丁坂を上がれば乗越浄土だ
中岳山頂付近。ガスでよくわからない
駒ヶ岳への登りは緩やかだが、山の全貌は分からない
駒ヶ岳山頂。ガスで展望がない
雲が霽(は)れ、宝剣岳が姿を現した
乗越浄土から伊那前岳へ向かう
伊那前岳(標高2,883M)
宝剣岳と千畳敷カール全景(左端に山頂駅)
伊那前岳から駒ケ岳と中岳(左)を臨む
宝剣岳(標高2,931M)へ向かう

千畳敷カールの様子
宝剣岳山頂。岩の上の広さは1平方メートル足らずだ
山頂岩からの様子
岩稜縦走は、高度感はあるものの距離は短い
眼下に千畳敷カールを一望する
ミヤマキンバイ
三ノ沢岳への分岐点と宝剣岳。左奥は駒ヶ岳と中岳
三ノ沢岳(標高2,847M)。ルートの残雪が多く、また場所によって緩く、途中で断念した
三ノ沢岳への鞍部から見た熊沢岳と空木岳
極楽平からのグリセードの痕

木曽駒ヶ岳(3,000メートル級残雪登山)

2009年6月15日(月曜日)

 木曽駒ヶ岳。
 中央高速から見上げる黒々とした山体は非常に巨大で、その標高2,956メートルは中央アルプスの最高峰を成す。
 標高2,612メートルの千畳敷カールまで、僅か7分30秒で駆け上がる駒ヶ岳ロープウェイが通年運行しており、どんな軽装でもアルプスの雰囲気に浸れるとあって、人気の観光地にもなっている。このロープウェイを使えば、山頂までの残り標高差は、たったの344メートルでしかない。
 通常どこの山でも、標高差千メートルくらいは歩いて登るものであり、それ相応の体力や覚悟なくして立ち入ることのできない世界なのだが、ロープウェイの恩恵で、誰でも、どんな軽装でも、いきなり三千メートル級の高山の核心部分に入ることができてしまう。
 ただし山頂まで気軽に登れるのは夏になってからのことで、6月の千畳敷カールはアイゼンとピッケル無しに駅の敷地からは出られない。ここまでは容易に来られても、周囲を取り巻く事象は三千メートル級高山のそれ以外ではなく、一歩でも結界を踏み越えれば、たちまちその爪牙に曝される。

 マイカー規制のためロープウェイの山麓駅にすら一般車は入れない。駒ヶ根インター近くの菅の台バス停駐車場に置き、バスに40分ほど揺られて行く。
 朝一番のバスが7時12分、ロープウェイの始発が8時ちょうどである。山頂駅に8時8分くらいに着いた。
 高速から見た木曽駒ヶ岳というのは全体に黒っぽいイメージだったが、ロープウェイで登った千畳敷カールから上の台地だけが、未だ白銀の別世界をなしている。この台地の縁(へり)に建つのが山頂駅で、ここを境に上と下とで景色が一変している。
 駅から出るとすぐ駒ヶ岳神社があり、その先にはアイゼンとピッケルがなければ立ち入り禁止との標識が掲げてある。
 さっそくアイゼンを着け、ピッケルを手に出発する。

 アイゼンもピッケルも初めて使う。
 アイゼンはともかく、ピッケルの使い方はよくわからない。まあ、持っていれば自然に覚えるだろう。

 生憎この日の千畳敷カールは半ば雲の中だった。山の上のほうはまったく見えない。
 カールという地形は、地獄の釜の底とでも言おうか、山をスプーンで抉(えぐ)り取ったような地形で、周り三方を急峻な岩壁で囲まれている。つまり三方からの雪崩が集中する雪崩の巣である。山頂駅は巧みに雪崩を逸れる高台に建っているが、山頂駅の目の前で登山者が雪崩に巻き込まれる死亡事故も過去幾度か起きている。
 ロープウェイで降り立ったところが、いきなり雪崩れの巣というのも凄まじいシチュエーションだが、この時期はさすがに崩れるべき雪はすべて崩れきっているだろう。
 ただその代わりというか、雪の上には一抱えもあるような石がところどころに置いてある。雪が融けて出てきたものではなく、あきらかに雪の上に置かれているのだ。雪崩れの後、気を付けねばならないのはこの落石である。
 雪上を転がってくる石は無音で気付きにくいという。視界も悪いこの日は特に注意しなければならない。

 地獄の釜の底は、歩いて行けばやがては釜の壁に突き当たる。それが八丁坂で、見上げれば胸を突くような急勾配が雲に吸い込まれている。夏ならばジグザグの登山道がつけてあるのだろうが、まるっきり雪に覆われた状態の時は、自然、最短距離の直登になってしまう。つまり最大傾斜線(フォールライン)を登るのである。
 ピッケルの石突を雪面に突き刺し、それを支えにしてアイゼンで歩を進める。これまで山スキーではストックで登ったが、ここまで斜度が急な場合、より深く刺さるピッケルの方が体のバランスを保持するのに有効のようだ。
 オットセイ岩を過ぎると雪の無い階段状の登山道が現れる。歩きにくいのでここでアイゼンを外す。ガスでこの先どうなっているか分からないが、おそらく尾根に出れば雪はないだろう。

 やがて稜線に出た。乗越浄土である。稜線に雪は無いが、浄土らしくまるっきりの雲の中で、見えるものといえば足許の地面だけある。目的の山影はまるで見えないが、とりあえず登山道に沿って張られたロープを頼りに進む。
 まるで河原を行くような、石がゴロゴロした緩やかな坂を登ると、やがて中岳(標高2,925M)に到達する。突如大きな岩が立っていたり、祠があったり、ガスが濃すぎてよく分からないが、おそらくここが山頂なのだろう。
 今立っている山頂すらよく分からないのだから、この先にあるはずの駒ヶ岳など見えるはずもない。地図とコンパスで方向を決め、中岳から緩やかな坂を下り、また緩やかに登るうち、どうやら駒ヶ岳山頂へたどり着いた。
 ここには標識も立っているし展望図指示盤もある。中岳といい駒ヶ岳といい、こんもりとしたお饅頭のような穏やかな山だ。山頂駅からの所要時間は1時間20分だった。

 しばらく休憩して雲の霽(は)れるのを待ったが、結局虚しく下山に移った。
 当初の予定では、駒ヶ岳山頂の他、周辺の小ピークである伊那前岳、宝剣岳、三ノ沢岳と巡回しようと思っていたが、こう何も見えなくては是非もない。予定を変更して宝剣岳の往復のみで帰ることにした。
 ところが中岳の捲き道を行くうち俄かに雲が切れ、眼前に三ノ沢岳が姿を現した。
 再度の予定変更で、まずは伊那前岳へと向かうことにする。

 伊那前岳への稜線は実に穏やかであり、乗越浄土から最初に現れる2,911Mピークを通り越した一段低い2,883Mピークが何故か山頂という不思議な定義の山である。しかもその山頂も植生保護区域内にある。
 まあ別にどうしても踏みたいピークでもなく、これから縦走する宝剣岳の岩稜と、下山コースの積雪状況を見に来ただけのことである。ピーク下まで来てもと来た道を引き返した。

 宝剣岳(標高2,931M)は、千畳敷カールにひときわ突き出た岩塊に過ぎないが、主峰・駒ヶ岳を差し置いて、この辺りのランドマーク的存在になっている。
 状況もこれまでの緩さとは一変した三千メートル級高山相応の危険な岩場が連続して出てくるようにもなる。
 目を凝らすと、鋭角の山頂のそのまた上に、鬼の角の様に突き出た尖塔があるのに気付く。この角の先が真実の頂上であり、広さは一平方メートル足らず、足許は300メートルの断崖という危険なロケーションである。
 強風に煽られれば断崖の藻屑と消えること請け合いであり、無理に登る必要もないが、幸いこの日は穏やかだったので登ってみた。風さえなければ昨年登った金峰山の五丈石より懸垂ストロークが短い分簡単に登れる。

 山頂から三ノ沢分岐点までの岩稜縦走は、昨年縦走した穂高連峰のそれを彷彿させるが、距離といい、アップダウンの高低差といい、スケールは遥かに小さく、受けるプレッシャーもほとんどない。
 岩場を難なくクリアし、調子に乗ったまま三ノ沢分岐から最後の目的地、三ノ沢岳(さんのさわだけ)へと向かう。
 これまでとは違い、この三ノ沢への尾根筋には未だかなりの残雪があった。しかも最近の踏み痕がない。
 どうもこれまでとは雰囲気が違う。はじめのうちは雪も良く締まっていて歩きやすかったが、鞍部まで下ると俄かに緩くなり、遂には膝まで踏み抜くようになった。途端にひどいペースダウンで、これでは時間が読みきれない。カンジキの用意はなく、またそれを想定しての登山でもない。チリチリと肌を刺す嫌な雰囲気もあって、ここで三ノ沢岳を断念した。

 もと来た道を稜線分岐まで登り返し、今日の登山を完結すべく、ロープウェイ山頂駅への降下点たる極楽平へと向かう。
 この稜線も滑落事故防止のためか登山道に沿ってロープが張られているが、極楽平の標識のあるところで斜面に向かって開放されていた。ここを下れば山頂駅である。
 極楽平の斜面は未だ厚い残雪に覆われているが、崩れるような雪庇は既に無く、コース取りと、クレバスの有無は対面の伊那前岳から先刻確認済みである。雪は安定していると断定した。本日最後に予定しているある試みを前に、充分な休憩をとった。

 グリセード。或いは棒ズリ、とも言う。登山者が雪の斜面を滑り降りる技術である。
 雪の斜面を滑り降りるなど、スキーヤーにとっては食事に箸を使うくらいの行為だが、雪山登山にも、下りは滑って降りてしまおうという技術が存在する。
 といっても、足にスキー板の代用品を着けるわけではなく、ピッケルでブレーキを掛けながら登山靴で滑るという、至ってシンプルなものである。立ち姿勢で滑るのをグリセードといい、お尻で滑るのをシリセード(尻制動)という。
 スキーヤーたるもの、滑りモノで人後に落ちるわけには行かない。わけても立ち技のグリセードの検証は避けては通れない課題だった。

 アイゼンは使わない。
 ピッケルのシャフトを左手に持ち、左脇の雪面に石突を突き立て、右手でピッケルのヘッドを握る。
 足首の緊張を開放すると徐々に滑り出すので、ピッケルを雪面に対して垂直に突き立てながら、雪を掘り削ってスピードをコントロールする。
 しかし、ひとつの誤算があった。ここで試したことが誤りだったことに、すぐに気が付いた。
 過去にこの斜面をスキーで滑っているので、今回も何とか行けるだろうと判断したのだが、すぐ下に山頂駅があるのがまずかった。ギャラリーがいたのである。
 もし彼らが私に気付いたとしたら、その目には恐怖に映ったに違いない。なぜなら、スキーやボードをしない人にとって、この斜面は、下から見上げると、ほとんど垂直に見えたに違いないからである。

 そもそもこれは人に見せるような技ではなかった。いや、技とも呼べない見苦しさだったろう。
 はじめはピッケルを雪面に対して垂直に突き立てていたが、斜度が急過ぎて思いのほか加速してくる。シャフトの角度を保つのはかなりの負担で、無論ピッケルを手放そうものなら、その瞬間にこの行為は滑落事故という定義に変わる。そうならないためには、ピッケルで減速させる以外に方法がない。
 石突を雪面から引き抜き、左手でシャフトを握ったまま体を反転させて雪面にうつ伏せに倒れ、同時に右手に握ったツルハシ状のヘッドを雪面に叩き込んだ。
 急ブレーキがかかる。強力な慣性力に耐えるため、左手はシャフトに、右手はヘッドにしがみつく。
 やがて停止した。

 明らかにこれは技術であり、技術である以上習練が必要である。
 ただ、ある程度の体得は見た。間違ってもストックで支えきれるものではない。
 こういう未熟な技はひとり人知れず練習すべきだが、図らずも意外な観衆の前にいきなり披露してしまうハメになり、その後悔に憔悴(しょうすい)する私に、追い討ちを掛けるように、植生保護区域に立ち入るなという山頂駅からのアナウンスが浴びせられた。
 5月31日までスキー場のゲレンデだったものが、6月1日からは植生保護区域なのである。

 三ノ沢を割愛したので、予定よりも早いロープウェイの乗客となった。
 ロープウェイには4人の先客がいた。誰もリュックなど背負っていない。近くにいたカップルが私を見て声を掛けて来た。
「さっき滑ってた人ですよね。スキーですか?」
 私は鼻白んだ。やはり見ていた人がいたのである。
「見てましたか。いや、これで滑ったのです」
 と、足許に転がしたピッケルを指差すと、彼は非常に驚いた様子で、
「すごい急でしたよね。スキーのように見えた。一体どうやってあそこまで登ったんです?」
 信じられないといった口吻である。
 私は訊いてみた。見ていてさぞ不快だったでしょうと。
 彼はニコリとして、やがて云った。
「ドキドキしました…」
「……」
 それが率直な感想だろう。
 私は穴があったら入りたい気持ちになり、窓の外へ視線を逸らせた。

 台地の縁(へり)に建つ山頂駅を降下すると、台地の上にある千畳敷カールはもはや見ることができない。先程までの銀世界がまるで夢だったかのように、景色が真っ黒に一変してしまっている。夢の世界の境界が急速に遠ざかっていった。

●登山データ
2009年6月15日(月曜日)
ロープウェイ山頂駅/千畳敷カール(標高2,612M)→駒ヶ岳(標高2,956M)、標高差344M

ロープウェイ山頂駅/千畳敷カール(8時20分登山開始)→八丁坂→乗越浄土(8時55分)→中岳(9時20分)→駒ヶ岳(9時40分到着)、登り所要時間:1時間20分
山頂滞在時間:20分
駒ヶ岳(10時00分)→乗越浄土(10時30分)→伊那前岳(10時55分)、所要時間:55分
休憩時間:5分
伊那前岳(11時00分)→乗越浄土(11時20分)→宝剣岳(11時40分)、所要時間:40分
山頂滞在時間:5分
宝剣岳(11時45分)→三ノ沢分岐(12時05分)→三ノ沢岳への鞍部(12時40分)、所要時間:55分、途中で断念し引き返す
三ノ沢岳への鞍部(12時40分下山開始)→極楽平(13時25分/休憩15分)→ロープウェイ山頂駅(13時55分到着)、所要時間:1時間15分
全行程:5時間35分

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