Practice Makes Perfect/登山について思うこと(第3話)
山の地権者と登山者のマナー劣化問題
私が登山を始めた当初、山は届けさえ出せば誰でも勝手に登っていいものと思っていた。
現にそうには違いない。現代でこそ登山はスポーツ、若しくはレジャー化しているが、歴史を辿れば狩猟や信仰の対象として、人類創生期から続いてきた崇高なる最古の文化のひとつなのである。
書店の棚には登山マップやガイドブックが並び、登山用品店に行けば必要な資器材一切が揃っている。寝具や食事など、わざわざ担いで行かなくても、金さえ払えば山小屋で提供してくれる。
しかし、山はすべてが国有地で、誰もが自由に登ってもいい、いわゆる『国民みんなの財産』というわけではなく、いつの頃からか税金を払っている暦乎(れっき)とした地権者がいて、どうやら彼らの厚意、或いは黙認によってこの文化が成り立っているということが薄々分かってきた。
先祖代々山を守ってきた地権者と、次から次にやって来る心無い登山者との間に、誤解や軋轢、或いは熾烈な攻防が繰り返され、挙句地権者が登山道を封鎖したり、登山者が林道のゲートを壊したりと、闇の実情があることが分かってきた。
登山道の入り口に当たる山麓部には人家や田畑があり、それら生活の営みから、およそそこに地権者のあることは伺えた。しかし麓ならいざ知らず、山頂までもが個人の持ち物だとは想像すら及ばなかった。
登山道というものは、一般公道と同じく、漠然と公共のものとのイメージを持っていた。なぜなら入り口には駐車場が整備され、登山道には案内標識やベンチが立ち並び、山上には山小屋が営業しているからである。これらが登山者の侵入を拒む姿勢であろうはずがなく、登山道が個人の持ち物かもしれない想像なぞつくはずもなかったのである。
自治体、法人、個人あるいは共有等、登山道も含め山全域に地権者がいる以上、登山者は他人の土地に無断侵入していることになる。駐車場や山小屋が整備されている場合は、地権者から容認されていると解釈しても、そうでない場合は法的注意が要りそうである。つまり、いちいち地権者に入山を断らない以上、地権者が容認しているのは登山道に限ったことであり、どこでも構わず立ち入っていいというわけではない。山はいちいち物理的なフェンスで囲われているわけではないが、目には映らなくとも法的なフェンスに護られている。林業、演習林、石灰岩採掘等の産業活動や入会地(いりあいち)など集落の生活の営みがある。無許可の登山者が自分本位に荒らしていい道理はない。
一方で山の楽しみ方も様々である。
単独登山、友人とのパーティー登山、旅行会社などが徴募した初対面どうしのツアー登山、冬季登山、ロッククライミング、沢登り、キャンプ、狩猟、渓流釣り、山菜取り、サバイバルゲーム、数十人もが参加するトレイルラン大会、マウンテンバイク、バーベキュー等、当初想定もしてなかったカテゴリーまで登場している。やる方は勝手だが、果たしてそれらのどこまでが地権者の容認を得たことなのかは疑問である。
登山道へのマーキングや標識の設置、樹木の伐採や新ルートの開設、岩壁にボルトを打ち込む行為などは、無論地権者の許可なくしては行えない。
山菜取りにしても、タラの芽を枝ごとヘシ折ったり、松茸や山芋あるいは筍などの営利目的の盗掘、明らかに人工養殖である榾木(ほだぎ)の椎茸の窃盗、明らかに自生ではない畑の西瓜泥棒、果ては家の庭に咲いている花までむしり盗るという、無知だけでは済まされない山賊まがいの行為が横行しているのである。
特に百名山ブーム、中高年登山ブーム以降、登山者のマナー劣化問題が著しい。そして多くの地権者が、それら山賊行為に対し泣き寝入りしているのが実情だろう。
こうなってくると、山は私が当初思っていたような印象とは違ってくる。
山は社会から限りなく隔絶した領域と思っていたが、無論それは錯覚であり、社会一般のルールがそのまま適用される社会の延長線上に他ならない。
しかし警察力が及びにくいのもまた事実である。
パトロールはできてもイタチごっこでしかなく、根絶するのは困難だろう。犯罪を未然に防ぐには自治会などの住民レベルで自警するしかなく、それも際限なくやってくる山賊の前にはいずれ疲弊してしまう。目先の欲に倫理性を喪失した、或いは放棄した一定数の登山者が、山賊化してしまうことは悲しいかな根源的にはどうにもならない。
健全なメジャースポーツはルールに則り、紳士的にプレイすることによって整備されたコートが提供され、社会的地位が認められているが、公園などの器物を損壊したり、他人に不快感を与えるような、いわゆるジャンクスポーツの類は、何か社会不適格者の行う準犯罪行為のような扱いを受け、簡単に排除対象になってしまう。
登山はどこか曖昧な立場にある。
個人所有の山は無論のこと、たとえ国有地にせよ、何となく容認、或いは黙認されているという程度のものでしかなく、遭難事故防止、自然保護、私有地だからといった理由で、何となく登山禁止という、登山そのものが何となく否定されるという事態が起こり始めている。
登山はそれ自体が危険であり、自然を痛める側面がある。そういうことを弁えた上で登山を続ける以上、登山者に求められる資質は自ずと見えてくるのではないだろうか。
(2011年12月)
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