Practice Makes Perfect/登山について思うこと(第2話)
山岳遭難
夏山登山も無事に3シーズン目を終えることができた。
無事に、というべきだろう。1961年から統計を取りはじめて以来、過去最悪だったという2008年の山岳遭難事故件数は1,631件にも達し、死者行方不明者数は281人にも及んだという。凄い数字である。
そして2009年も前年に劣らず、様々な山岳遭難事故が相次いだ。人が山に登る限り決してなくならない山岳遭難事故。今回はこの問題について考えてみる。
山岳遭難事故は、山登りを続ける限り、いつかは自分自身にも起こり得る看過できない問題である。
しかし実際は、もしかしたら死ぬかもしれないと一応は思いつつも、ほとんど大部分のところでは、自分だけは大丈夫と、根拠不明のまま他人事のように多寡をくくっているのが実情だろう。日程、装備、体調など、基本的要素に不備がないのは無論のこと、自己の能力と対象となる山の難易度を把握した上、天候の悪化や降雨後の地盤の緩みから起こる落石の危険などを予測できれば、かなりの部分で山岳遭難事故は回避できる。これらの要素を検討した上で、自分の手に余ると判断したら、行かなければいいだけのことである。無事に登って帰って来るには、当然それだけの準備が必要であり、登れると確信できるまで準備に準備を重ね、登れると見切ってから登るのが、失敗のリスクの大き過ぎる登山にあっては然るべき危機管理というものだろう。
しかし、これらの要素すべてを見切っても尚、防ぎようのない不確定要素はふたつある。
ひとつは不注意である。人間である以上誰しもが持つ驕りや慢心、或いは勘違いや思い込みから起こる何でもないところでの間違いである。まことにつまらない、しかし厄介な問題である。
もうひとつは不可抗力である。時には人智を超えた予測不能の事態が起こり得るのが山である。何しろ相手は膨大な自然力であり、その容量の最大値は、どんなに鍛錬を積んだ人間でも決して抗えない。ひとたびそれが発動すれば、運以外に逃れる術がない“神の鉄槌”である。
不確定要素のあるかぎり、100パーセント安全な登山というのは在り得ないが、事故原因のほとんど大部分が、登山者自身の経験不足や能力不足、或いは無謀・無計画によるものであり、登山者自身の自覚次第で本質的には防げる問題である。
自分ひとりでは行けないが、どうしても対象の山に登りたいという場合、上級登山者とのパーティー登山という方法がある。他人の援助、或いは介助を仰いで登らせてもらおうという形態で、この場合の要諦は、対象の山に自分ひとりで登る能力が最初からないということであり、他人に命を預けざるを得ないという点にある。つまり、何らかの要因でこのシステムが破綻した場合、遭難死は確約されたも同然になってしまう。
パーティー登山やツアー登山では、各個の能力や体調、或いは性格や価値観に相違が出るのはむしろ当然であり、ひとりでも歩けなくなれば、団体行動を尊重して中止撤退するか、パーティーを二分して別行動にするか、更には、ひとりのためにパーティー全員を遭難の危地に落とすか、或いは大勢を救うために少数を見捨てるかといった、当然起こり得るパーティーの葛藤とシステム破綻の危機に、脱落者の運命は祭壇の子羊のように、神の役目を担ったリーダーの絶対審判の上に委ねられてしまう。
2009年7月に起こった大雪山系での10人の凍死事故でクローズアップされたツアー登山なぞ、その点でずいぶんと融通の利かない杜撰(ずさん)さを露呈したが、過去にもこういった事例は多く、この登山形態は自分ひとりで登る能力のない者にとっては、参加した時点で既に片足を棺桶に突っ込んだ状態であり、他のメンバーにしてみれば、はじめから火の着いた爆弾を背負ってしまうようなものである。もし途中で投げ捨てねば全員爆死する。
私自身の登山形態は単独行で、その計画や行動は自由である。
天候が悪化するとなれば直前にでも中止できるし、或いは山頂を目前にして引き返すことすら誰に気兼ねすることもない。
尤(もっと)も私の場合、平日の日帰り強行が主体なので、前夜ほとんど寝ないで10時間歩くというスタイルであり、多くの場合滅多に他人にも会わないので、いつかは心停止、或いは脳出血で長く山に放置される可能性は否めない。パートナーがいれば或いは助かったという事例はあるだろうし、単独登山を無謀とする見方もあるだろうが、ひとまずそれは措(お)く。
人ひとりでできることなぞ多寡の知れたもので、冬山や岩壁登攀になると不可能に近い。
夏山登山をしていても、目には見えないが、空気の薄壁一枚向こうに生死の境を感じることがある。冬山や岩壁登攀などの上級登山は、この境界を踏み越えてしまう確率が高くなるわけだが、そのギリギリに挑む上級登山者たちは、無論死ぬつもりはないにしろ、もしかしたら今日死ぬかもしれないという覚悟を果たしてどの程度肚(はら)に据えているのだろうか。
元富士山測候所員だった新田次郎が、実話を元にして書いた小説『殉職』がある。
富士山測候所の交代勤務のために登ったベテラン職員が、御殿場口7合目で強風に吹き飛ばされて滑落死するという内容で、そこは過去何人もの職員が滑落死した、強風と蒼氷(そうひょう)の危険地帯だとされている。
2009年12月、富士山御殿場口7合目でテント泊していた3人パーティーが、テントごと強風に吹き飛ばされ、6合目まで滑落して、ふたりが死亡するという事故があった。
小説との符合に少なからず驚いたが、小説同様、想定以上の強風に抗し得なかった結果なのだろう。南極登山に向けてのトレーニングだったとのことで、敢えてこの状況に挑んだのか、結果はなんとも悼(いた)ましいものになった。
この事故の教訓は、どんなに経験を積んだ登山者だろうと、自身の持つギリギリの境界を超えてしまったが最後、運以外にリカバリー不能ということである。自分ならやれるはずという驕りや過信は時には必要だが、それは同時に自らを危地に立たせることであり、失敗すれば取り返しのつかない代償を払わされるということである。
冬山への登山自粛を呼びかける自治体を嘲笑うかのように登山届も出さずに入山し、その挙句、遭難して自治体に救助を求める。救助隊に二次遭難の危険を負わせ、無論救助要請さえすれば必ず生きて帰れるというわけでもない。遭難死すれば遺族の生活は困窮し、仲間を死なせながら生き残った者は一生涯の贖罪に嘖(さいな)まれる。そうまでして何故山に登るのか。
たしかに誰しも何かしら譲れないものがあり、傍からやめろと言われても、そう簡単に納得できるものではない。ただ山の場合、遭難は命に拘ることであり、周囲に及ぼす影響があまりに大きすぎるという点に問題がある。
山をやらないヤツに一体何がわかる、という人がいる。
事故後、当然論ぜられるべき結果論に対する反論である。もしあの時ああしていたらとか、こうしていればよかったという論議に対して、後からなら何とでも言えると打ち切ってしまう。いつもそれでお仕舞いであり、決まって何の進展もない。
確かに山をやらないヤツに山登りの忖度(そんたく)は無理だろうし、その意味では真理を突いた格言とも言えるが、あの時無理しなければよかったとか、あの時いい気になって調子に乗らなければ事故は起きなかったかもしれないという、せめてそのくらいの仮定は、驕りや慢心に対する戒めとして心に留めておく謙虚さがあってもいいのではなかろうか。それが本能の赴くままに生きる他の動物とは違う“人間の尊厳”というものである。
人にはそれぞれ生まれもっての性格や価値観があり、それをひとくくりの枠に収めることは難しい。しかし、だからといって、個々に無制限の自由を認めていたら、社会システムそのものが成り立たない。システムはただの形骸であり、“人間の尊厳”を前提として、かろうじて存続しているに過ぎない。そうした限界からの飛躍、或いは解放を求めて山に入るのだとしたら、結局最後はそこに依存せざるを得ない矛盾に、自らの限界を知るべきだろう。つまり、釈迦の掌で踊っていた孫悟空である。
ざっと感じたことを書いてみた。
ここまで書いてみると考察は虚しく行き詰まる。
何故なら人の生まれ持った魂の原始根幹は、本来理屈や理性を超越したものであり、システムとして考え出された道徳教育や管理制限を必ずしも肯(がえん)じえないからである。完璧ならざる人の無智故の独善性や、自分さえよければいいという身勝手さがある以上、システム自体が現実には歪んだものでしかなく、各々で妥協し得る部分と受け入れられない部分を、うまく使い分けているのが実情であり、どこまでそうした自制の枠を掛けられるかは所詮本人次第だからである。
しかし少なくとも、選択の一瞬後から起こり始める事態の連鎖くらいは想像しておくべきだろう。
山に生死の選択を迫られて、引き返す人は何も言われなくもそうするし、敢えて自分の限界を跳躍しようとする人は、いくら他人が止めても決して肯(き)かないだろう。運が良ければ成功するだろうし、悪ければ所詮それまでという、命を担保にした賭けに打って出る。
それだけのことであり、これで考察は虚しく行き詰まる。
ひとまず一般論は措くとする。
私の今後はというと、やはり単独登山を続けてゆくだろう。
あくまでも自分自身の経験則を積み重ねることによって、それが効率的でないにしろ、リスクを伴うにしろ、或いは無駄で遠回りかもしれないが、そこから得られる苦しみと喜びは、他人(ひと)から与えられたものではない自分だけのものであり、私の心身の内に蓄えられ、或いは何にもならないかもしれないが、やがて何かに昇華するだろう期待も少しは持ち得るのである。
(2010年1月)
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