Practice Makes Perfect/登山について思うこと(第1話)
山に登る理由
山スキーの延長から始めた夏山登山も、無事2シーズンを終えることができた。そこで、この2年間に抱いた山登りについての感想をまとめておくことにする。今回は、何故山に登るのか、ということについて書いてみる。
この2年間の登山はすべて単独行だった。単に連れがいないだけのことなのだが、別な思いもある。同行者に迷惑を掛けたくないし、また掛けられたくもないので、今のところこのスタイルを貫いている。平日に登山するため、多くの場合他人にも会わない孤独な登山である。
登山というのは決して楽しいものではなく、そのほとんどの行程は辛く苦しいものと言っていい。特に私の場合はスキーのオフトレを兼ねているため、その行程には幾分無理があり、そのことが同行者を求めない理由にもなっている。
しかし登山をスポーツと定義するならば、およそ辛くも苦しくもないスポーツというものは存在しないだろうから、そんな辛く苦しいことを何故するのかといった意味の質問は、登山のみならずスポーツ全般に対してのものになるだろう。そして、それに対してまず発せられるべき答えは、『何かに駆り立てられるから』という漠然としたものになるに違いない。
前述した通り山登りは苦しく、登っている最中は毎回、もうこれでやめようと思うものである。しかし下山して一週間も経つと不思議とまた登りたくなる。それも何かに駆り立てられるように無性に登りたくなるのである。
無論、山に駆り立てられない人もいる。駆り立てられる対象は人それぞれなので、これは多分に遺伝子的なものなのだろう。インドア、アウトドアに係らず、人は何かしらそういう対象を持っているのではないだろうか。
登山は危険である。
多くのスポーツには怪我が付き物で、その意味ではどのスポーツにも危険性は内在するが、登山の場合は少し意味合いが異なる。
ほとんどすべてのスポーツは人が定めたルールがあり、レフェリーが立会い、直接スポーツとは関係のない医療搬送体制などの社会の庇護の下に行われている。それに対し、登山を支配するルールは自然法則のみであり、落石や落雷など、他のスポーツにはない、一撃で致命的ダメージを食らわす神の鉄槌のような事態ですら想定内なのである。
それを制止してくれるレフェリーもなければ医療搬送なども及びにくい、いわば限りなく社会の庇護の及ばない場所で、自己の能力を振り絞ろうというのが登山である。毎年100人、200人と死者・行方不明者を出すスポーツなど他にないだろう。
辛く苦しいだけで楽しくもない上に、それほどのリスクを背負ってまで一体何に駆り立てられるというのだろうか。それが遺伝子的な要因だとするならば、少し話は飛躍するが、太古の祖先のことに触れねばならないだろう。
太古の時代には完全な自由が存在した。自由とは弱肉強食である。食べたいものがあれば誰に遠慮することなく食べてよかったが、同時により凶暴な捕食者の前では自らを相手の胃袋に提供しなければならなかった。相手にとっての自由はこちらにしてみれば危険でしかない。その意味で自由と危険は同義語だった。
やがて人は道具を手にし、言語を発達させ、協力と役割分担を確立することで、凶暴な捕食者に対抗し、やがてそれを凌駕するまでになった。それが今日で言う社会である。
個人個人は肉食獣より弱者でも、社会という共同体を形成することで強者の側に立った。社会にいるかぎり安全だが、社会の誕生と同時にルールが生まれ、それによって個人の自由は制限された。こちらの自由が相手にとっての脅威とならないような措置だった。危険がなくなる代わりに自由も失われた。
そして様々なスポーツもそうした社会を背景として発達していった。
山というのは社会の中にあって、社会の庇護の及びにくい外界に近い。特に草木も生えないような、風化と崩壊の限りを尽くした高山は、そのまま太古の地球の化石を見るようであり、黄昏時の無人の岩稜をひとり行く時など、神の審判の前に一人引き出された罪人ででもあるかのような、何とも言えない生物的な畏怖を呼び起こされる。
或いは万物の二極原理に基づく相対的価値観と言ってもいいだろうか。いわゆる陰と陽、光と影、そして生と死である。
大きいものがあるから小さいものがあり、強いものがあるから弱いものがある。死を感じない生活では生を感じにくく、死を感じた時にこそ、命の存在、生への執着に気付く。
安全が確保された社会の中で暮らす現代人が、山に登ることによって、深層記憶の底に眠る畏怖を呼び起こされて畏れおののく。下山してからも、その原始的恐怖の深淵を覗き見たいという、いてもたってもいられない衝動に駆られ、また登る。そういう原始回帰への憧憬、或いは生と死の接点への憧憬が、人が山に惹きつけられる理由ではないだろうか。
(2008年11月)
グッズについて
●飲料水
山の湧き水を当てにして行けば、その分背負って行く荷物を減らせるが、私は飲料水はすべて持参している。500mlのペットボトルを5本、計2.5リットルを持って行くが、日帰り10時間の行程でも1本は余る。
最初はすべてスポーツドリンクを持って行ったが、これだけ飲むと下痢をすることが分かり、現在ではスポーツドリンク2本とミネラルウォーター3本の組み合わせにしている。以後下痢に陥ることはなくなった。
●炭酸飲料
気温が高く、ひどく汗を掻いている時、つまり熱中症の危険に晒されている時、下山して自販機で冷たい炭酸飲料水を買って飲んだところ、その瞬間、胸が締め付けられるように苦しくなった。しばらく呼吸もできないほどだった。冷たいコーヒーではこの症状は起こらないので、やはり原因は炭酸だろう。炭酸が膨張して気道閉塞を起こしたような感じだった。赤血球のヘモグロビンが炭酸と結びついて酸欠を起こしたという感じではなかった。とにかく、一口飲んだ瞬間から5秒ほど苦しくなった。
●携帯電話
富士山など携帯電話が使える山もあるが、ほとんどの山は圏外と思っていいだろう。しかし万が一遭難でもした場合は、或いは通じるかもしれないので持っていた方がいい。
この携帯電話というのは、現在の位置から通じる基地局を探索して、それを確保しておかないと気が済まないように出来ているらしい。街中ではすぐに確保して眠りに着くが、圏外にいる場合は携帯はその探索に奔走し疲弊してしまうらしい。つまり通話をしていなくとも電力を消費し続け、山から下りてくる頃には電池がすっかりなくなってしまっている。これだとせっかく持っていても、いざという時に使えないので、山に登る時は電源を切っておこう。
●ロープ
本格的な岩壁登攀(ロッククライミング)とまでは行かないが、岩山へ登る時にはロープを一本持っていると心強い。私はホームセンターで20メートルのロープを1,000円くらいで買って来た。何も懸垂下降するわけではなく、ただの補助なので細めのものだ。
通常の岩山登山路には鎖が着いているが、ない箇所もある。ここには着けて欲しいと思う個所もあり、登る時には仕方がないにしても、降りる時にはロープがあれば効果がある。丈夫そうな木にロープをまわせば半分の10メートルまでならそれを補助にして降りることができ、回収もできるという想定だが、実際に使った事はなく、持っていれば気持ちの余裕ができるというだけに留まっている。
登山目次
Home
Copyright © 1996- Chishima Osamu. All Rights Reserved.