Practice Makes Perfect/千畳敷カール

雨の千畳敷カール、宝剣岳・山スキー

 中央アルプス駒ケ岳(標高2,956m)の一角である宝剣岳(標高2,931m)の懐、千畳敷カールにはスキー場があり、天気が好ければアルプスの景観を楽しみながらの山スキーが楽しめるが、カールという地形は雪崩の巣で、真冬にはロープウェイ山頂駅を目前にして落命した人もいる。
 1995年5月21日、山頂の様子は中央高速から見て取れ、私が行ったときは晴れていた。駒ヶ根インターを降りるとすぐに有料駐車場があり、ここから先はマイカーは入れない。高額料金のかかるバスとロープウェイを乗り継いでカールに上がることになり、スキーの持ち込みは更に100円の上乗せ料金を取られる。この日は日曜日で、麓の駅に乗客は30人ほどいたが、スキーを持っていたのは私と同僚の二人きりで、周囲からは、スキーだよ、スキーだよと、河童でも見たかのような声が聞こえていた。
 ここで注意しなければいけないのが、スキー場がまだ営業しているか否かで、春に営業が終了していると例え雪が残っていても滑走できないという事実だ。植生保護という理由らしい。スキー場自体は簡易リフト一本に短い緩斜面しかなく、ここを訪れたほとんどのスキーヤーとボーダーの目的はハイクアップしての山スキーにある。自分でハイクして滑るから良いんだと言っても、スキー板を持っているとバスに乗せてくれないので要注意だ。

 朝は晴れていた山頂もロープウェイが高度を上げるにつれ、あれよあれよという間にガスに取り囲まれてしまい、我々をはじめとする観光客一行を不安にさせた。山頂は雲の上かもしれないという一縷(いちる)の望みもむなしく、上はただの白い世界が広がっていて、観光客はこれに大きく落胆し、もはや晴れることをただひたすら願って山頂駅で時を過ごすしかなかった。
 私は一眼レフを駅のコインロッカーに放り込み、眼下のゲレンデを見渡した。ゲレンデとリフト合わせて10人ほどの先客がいる。
 千畳敷スキー場はエンジン駆動の簡易式ロープリフトが一本あり、コースも短い緩斜面が一本きりだ。早速リフト乗り場に滑り降りて一日券を求めた。料金は安かったと記憶しているが、リフト係の男は、午後は雨になるかも知れず、おそらくお昼で営業終了するから回数券にしたほうが良いと云う。私が降らなかったらどうするのかと訊くと、男は絶対の自信があるのか、その時はタダで乗って良いと云うので、回数券を購入した。これはテレカの通話度数のように乗るたびに改札の切符切りのハサミを入れるので、専用のホルダーも買った。
 リフトは今までに見たことのないタイプだった。乗り場に乗り方が大きく図解されている。傍らにはロープに木の捧と金属のフックの付いた物がかけてあり、これを手にとって目の前をブンブン回るワイヤーに引っ掛けて、スキー板を雪面に着けたまま、上まで引っ張ってもらうシステムという事は理解できた。しかしフックのかけ方が良くわからない。しばらくそこで先客たちを観察していると、フックをかけた途端、顔面から「うぎゃっ」と転倒する女性や、終点間際の急勾配で脱落する人など、かなり過酷な状況が見受けられた。落ちてもリフトは止まらず、誰も助けてくれないという不文律が在る。すでにここは自己責任が支配する山スキーの世界なのである。

 上手い子供がいたので彼を参考にした。
 う〜む、…できる。
 私は木の捧の付いたロープの端を股に挟んだまま、よちよちとワイヤーに近づき、フックの形状を確認して、ワイヤーにロックするように引っ掛けた。次の瞬間私はロケットスタートした。『宇宙空母ギャラクティカ』のスターバック中尉になった気分だった。
 幸いなことに私は一度も落ちなかった。体を後ろに預けて決してロープのテンションを緩めないのがコツだが、降り場の手前だけ妙に急勾配になっていて、鯉の滝上りのような見せ場になっていた。
 この山場を乗り切ると水平になり降り場である。この急な勾配変化によって自然にテンションが抜けるようになっていて、フックがすっと外れる。傍らにある馬つなぎの柵のようなところにそれを戻すのだが、下のリフトは徐々に上に溜まってくるので、時折これを担いで下ろす専門の男がいた。

 事前に見てきたガイドブックでは、距離は短く斜度は緩いものの、そこは一面コブ斜面であると紹介されていたが、この日はまったくの平滑で、実際に滑ってみると実につまらないものだった。リフトの傍らにポールが張ってあり、同僚が滑ると下でリフト係が、それは自分が個人的に立てたものなので滑らないで欲しいとか云っている。ケチ臭い。距離が短い緩斜面を面白くするにはコブを作るかポールを立てるかしかあるまいに。もっと客に喜んでもらえるサービスができないものかと思ったが、そんなこんなであっという間に回数券を使い果たしてしまい、もういいですからとリフト係はその後3回ほどタダで乗せてくれた。
 やがて予言通り雨が降ってきたので、駅舎に逃げ込んで昼食にした。すっかり行き場を失った多くの観光客がうつろに食事している。結局この日はこのまま雨だった。

 そんな観光客を尻目に、食後はいよいよハイクアップに挑戦である。登ってすぐに誰かが作ったジャンプ台を発見した途端スイッチが入り、狂ったようにここで遊んだ。すると一人のスキーヤーが登ってきて、自分にも飛ばせて欲しいと云う。彼は名古屋から来たモーグラーだそうで、しばらく一緒に遊んでいるうちにハイクアップのことを思い出し、実は我々は上を目指していますと云うと、彼も同行すると言いだした。
 辺りはほとんど視界が効かないうえ、雪崩の巣にも拘らず山をなめきっていた我々は、アバランチビーコンはおろか飲料水さえ持たずにハイクアップを開始した。登ったところはおそらく正規ルートではなかったが、この視界では滑るところを登って予備知識を得たほうが良いとの判断が働いた。勾配はかなり急で、両手に持った板が雪に深く突き刺さるほどだったが、登るのは不思議と大して苦痛ではなかった。
 視界は効かないもののやがて勾配が緩くなり、良いところまで登ったであろうその時、目の前にボヤ〜っと何かが立っているのに気がついた。
 石碑だった。
 遭難者の碑とか書いてある。
 視界が効かない中これ以上登って岐阜側へ滑落したらヤバい。もうこの辺でいいんじゃない、とそこで休憩した(実は反対側も長野である)。口にするものを何も持ってこなかったことを少し後悔した。

 板を装着して出発しようとした途端、私はバランスを崩して滑落した。しかも今登ってきたところとは違う場所へ落ちた。幸い5メートルほどで停止し、再び二人の待つところまで登ると、言ってるそばから冗談はやめろ、と怒られた。今更言うまでもない。遭難と背中合わせの状況なのだ。この日は遂に見ることが出来なかったが、写真で見る宝剣岳の山容はまるっきりの岩山で、予備知識のないところを滑ったら命はない。
 気を取り直して、視界のほとんど効かない中、今登って来たところを滑るとそれは一瞬で終了した。目の前にボヤ〜っと何かが浮かび上がり、それがワイヤーリフトであることがわかると、三人は呆然として立ち尽くした。地平線の彼方にブッダの5本の指を見た孫悟空の気分だった。

 昼近くからずっと雨なのでもう誰もいない。ブンブンと元気よく回っていたワイヤーリフトもすっかり沈黙し、雨が滴っていた。
 もはや誰も、登ろうとも滑ろうとも口にしなかったが、山頂駅までハイクアップしなければ帰れないことには薄々気付いていた。この雨とガスで他に客はいない。ちゃんとロープウェイが定刻まで動いているのか俄かに不安になった。ガスで現状が確認できない。
 とにかく一人でも駅にたどり着けば、最終のロープウェイに待ったを掛けられる。三人はその戦略を確認すると最後のハイクアップを開始した。激しく息が切れた。他のヤツのことには構わず登った。その姿はもはや、霧中にうごめく三匹の鬼だった。

 ロープウェイは最終のひとつ手前くらいで、改札兼ガイドのお姉さんは、この雨の中まだ滑っていたのかとあきれ返っていた。
 他に乗客は誰もいなかった。

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