Practice Makes Perfect/浦佐
浦佐スキー場の検定バーンとスキーセンターと温泉旅館街
浦佐
検定バーンを下から見上げる
緩やかなオープンスロープが広がる
六日町から小出に掛けては、リフト一本程度のごく小規模なスキー場がいくつもあり、その多くが市民スキー場である。しかし、この浦佐のみは、規模こそ変わらないが、多くの首都圏スキーヤーにとっては特別な認識がもたれている。
『スキー道場』、『虎の穴』、形容する言葉はいくつかあるが、かつてスキーブームが席巻した時代より、多くの神格的スキーヤーを輩出し、上達嗜好の強い首都圏スキーヤーにとっては、ある種のパワースポット的な存在となっている。つまり、ここに来るスキーヤーのほとんどはスキースクールを受講し、基礎の基礎を叩き込まれることに陶酔するのである。
2011年3月11日(金)14時46分、筆者は浦佐のスキースクールを受講中であり、先生と一緒にリフト上で大きな揺れに襲われた。リフトが空中でガクリと止まり、前後左右に揺さぶられた。最初はよくあるリフト停止の反動と思っていたが、揺れはなかなか収まらず、それどころか徐々に振幅を増し、隣の休止中のリフトも大きく動いているのを見て初めて地震と気が付いた。停まった場所は地上7メートル程の高さがあり、あまりの揺れの大きさに脱索するのではないかと思ったが、長いこと揺られた末、どうやら小康を得たのか降り場までリフトをゆっくり動かしてもらい、乗っている人すべてを降ろしてから運転を休止した。この日は平日だったこともあり、客はスクール受講者が4人と、他に一人滑っているくらいだった。ゲレンデベースに降りてきていたリフト係のおじさんに訊くと、震源は東北三陸沖とのことで、2日前の3月9日にも同じ場所で震度5の地震があったばかりだった。近くの建物の屋根のテレビアンテナがいつまでも揺れていた。
結局この日はリフトの運行は取りやめとなり、スクールの先生はそれでは歩いて登って滑りましょうと、しばらくレッスンを続けてくれた。
これが東北地方太平洋沖地震であり、その後の東日本大震災である。宮城県で最大震度7を観測したのを筆頭に、広い地域で震度6以上を記録し、浦佐のある南魚沼市は震度5弱だった。
東日本大震災は東北のみならず、関東地方にも大混乱を起こしており、地震による大津波で、福島第一原発がメルトダウンを引き起こし、被害を更に増大させたのは周知の通りである。
しかし浦佐の災難はこれだけにとどまらず、翌3月12日3時59分、今度は長野県栄村と新潟県十日町の県境を震源とする長野県北部地震が襲った。栄村で震度6強、震源地に近い南魚沼市は震度5弱だったが、東日本大震災の被害の凄まじさに、翌日未明に起こったこの地震は全国ニュースとしてはあまり大きく取り上げられなかった。
浦佐の2011シーズンのその後の営業がどうだったのかは知らないが、シーズン終了後、経営事情からか翌シーズンの営業休止を発表して間も無く、大雨によって検定バーンが土砂崩落し、下にあったスキーセンターを圧し潰すという珍事が起こった。2度の地震で斜面が緩んでいたのか、はたまた、どうしてもあと1点が取れずに検定に砕け散った数多のスキーヤーの怨念によるものなのか、その象徴である検定バーンの崩壊という劇的な最期を以って、浦佐スキー場は同年9月に経営破綻した。1958年の開業から53年続いたスキー道場は伝説の中に消え去ったのである。
呑気に温泉に浸かって高速道路に向かう途中で、今回の地震が尋常ではないことに初めて気付いた。高速入り口の電光掲示板に、関越道は水上インターから練馬インターまで全面通行止めと出ていたのである。震源は東北三陸沖で、関東より震源に近い浦佐でも一見平穏なのに、いったい何が起こっているのかしばらく理解できなかった。クルマのラジオを点けると、各地で死者200人とか300人の被害が出ていると、訳のわからないことを報じていた。映画『インデペンデンスデイ』みたいに突如宇宙人が攻めてきたのか、戦争でも起こったのかと思った。電話は個人携帯も会社携帯も通じなかった。ともかく、六日町インターから乗って関越トンネルを抜け、水上インターで降ろされた。国道17号線の渋滞は凄まじく、途中のコンビニには長蛇のトイレ行列ができていた。埼玉の自宅まで2時間ちょっとの道のりを6時間かけて帰った。自宅周辺は信号機も停電していた。職場も大混乱に見舞われていた。
その後、原発全停止による電力不足、輪番停電、ガソリン不足などにより、スキー自粛ムードに突入した。
スキー目次
Home
Copyright © 1996- Chishima Osamu. All Rights Reserved.