Practice Makes Perfect/スキー日記

天国に近いスキー場

天神平で見たもの

復興に歩む湯沢

失われた時間
ARAI MOUNTAIN & SPAにて。
標識が“CLOSE”だったら決して滑ってはいけない。死ぬ。


天国に近いスキー場

 ARAIに初めて行ったのは2001年5月中旬だった。多くのスキー場は4月の第一日曜でシーズンを終えてしまうため、それ以降は専らかぐらスキー場に行くのだが、たまには変化が欲しく、高額の高速料金を払って単身遥々とARAIまで行ったのである。
 中郷インターを降りて矢代川沿いの道を走ると、正面に大毛無山が残雪も眩しく見えてくる。麓は明るい新緑の農村風景で、五月晴れの空がコントラストになってこの風景を引き締めている。私は川沿いの路肩にクルマを停め、しばしこの風景を網膜に焼き付けた。スキーに重たい一眼レフを持ち歩くことは稀にあるが、スキーにのめり込むうちいつしか携行リストから除外されていた。カメラを持ってこなかったことを少し後悔した。
 ARAIを抱える大毛無山は、標高1,429メートルと特に高い山ではないが、このあたりはかなりの豪雪地帯で、上部ゲレンデにはゴールデンウィーク明けでもかなりの雪が残っている。全長1キロのクワッドリフトで当たり一面のオフピステを滑ることができ、1日券は春スキー価格の1,800円と安い。

 いつものように駐車場で着替えていると、隣で二人の男が何やらピッピッピーっとけたたましい音を立てている。アバランチビーコンである。雪崩に飲まれて行方不明になってしまった時、これがあれば発見してもらえるかもしれないという雪山登山ご用達のサバイバルアイテムである。この探知器が強く反応する足元にターゲットが埋まっているので、捧で突っついて確認し、当たりがあったら掘り出すという手順だ。
 で?
 それが今日必要なのか?
 ARAIは国内では珍しい、気象条件付きながらコース外滑走を容認しているスキー場である。スキーパトロールは爆薬を使ったアバランチコントロールまでしていて、条件が良ければ、自己責任において指定のコース外エリアを客に開放している。しかし、当然圧雪整備をしているわけではないので、斜面状況はやさしいものではない。自然が相手のことであり、解放しているとはいえ100パーセントの安全が保障されているわけではなく、あくまでも自己責任で滑るわけだが、とりあえず普通は5月半ばにアバランチビーコンなど持ち歩かないだろう。
 稀に漫画で、携帯電話の呼び出し音で雪の中の仲間を発見するというシチュエーションがあるが、まあやらないよりは良いということだろう。運が良ければ電波が届くかもしれない。
 言うまでもないことだが、最初から雪崩れの中を滑ろうという人はおらず、雪崩れは滑った人が自ら発生させるものである。一人で滑った場合、餌食になるのは本人のみだが、グループで滑った場合は全員を道連れにすることになると肝に銘じておくべきだ。

 駐車場からセントラルプラザを抜けてゴンドラ乗り場までひたすら歩かなければならないが、この建物の規模は凄い。右側はホテルで、既存の建物の隣に更に別棟を建設中である。左手には飲食店が軒を連ね、もはやひとつの街のようだが、スキーシーズン中はともかく、オフシーズンにこれらすべてが採算が取れるほど稼働するのか素人目にも心配だが、とにかくここを歩くのはだるかった。
 ベースからゴンドラに乗って見る風景は、辺り一帯まったくの新緑で雪はない。雪解けの水が轟音を上げてそこここで滝となっている様が豪快である。
 ゴンドラを降りてクワッドに乗り換えると、森林限界を超えたかと錯覚するほど、木々の少ないオープンゲレンデが視界一面に飛び込んでくる。実際には木がすべて埋没するくらいの積雪量があるためだが、とにかく今日はこのどこを滑っても良いとは、まったくすばらしいスキー場である。
 クワッドには時折ゴンドラを混ぜて飛ばしている。ゲレンデにはチェアスキーの二人組が豪快に滑っていたが、彼ら用ということだろうか。
 このクワッドのベースにある膳棚フードガーデンには生バンドが出るらしいが、あいにくこの日は休みとのことで残念だった。ここの無料休憩スペースは広く綺麗なカーペット敷きで、自販機の缶飲料も下界と同じ120円だった。

 クワッドのカバーするエリアは広い。まず圧雪コースは緩急が効いていて雪質も滑りやすい。端のほうにはモーグルコースも設置されている。そして気象条件付きコース外滑走可能エリアは、クワッドがカバーする範囲で全面開放されていた。
 5月とあって雪はよく締まっていて滑りやすい。このエリアは斜度も緩く、大木もなく、この時期ならプルークボーゲンができれば滑れるだろう。この日滑れた範囲内には雪崩の危険を感じさせる箇所はなく、穏やかな春の山スキーといった趣きだった。他のスキー場で無理にリフト下などを滑るより、はるかに安全である。
 次回はハイシーズンに来て、是非全コース制覇とコース外パウダーを満喫したいとARAIを後にした。

 2005年2月、ARAI再訪の日が来た。
 上信道から更埴ジャンクションを経て長野道を北上すると、以前は長かった一車線区間もだいぶ複線化していた。中央分離帯のガードレールに積もった雪庇が今にも追い越し車線に崩れてきそうで恐怖を誘う。事実数箇所で崩れている。このスピードでこんな塊に直撃したらスピンして隣の車線に突っ込むだろう。
 前回使った中郷インターを通り越して、新井PAで降りる。社会実験のスマートインターが開設していてアクセスも幾分近くなっていた。
 以前の春スキーの景色とは違い、下道に降りてからはずっと高さ3メートルの雪の壁に囲まれてのドライブだった。すごい積雪量である。途中にある日帰り温泉センターも、出入り口のみ除雪されているものの、建物は見えない。しかし路面の除雪状態は大変行き届いていて、スタッドレスタイヤなら問題なかった。

 リフト券も以前とは違い、ちゃちなものに変更されていた。裏紙を剥がすとシールになっている券を専用の小さなハンガーに貼り付け、ウェアのファスナーに取り付けるようになっている。しかしこれでは転倒した際紛失する危険が高いので、私は通常のリフト券ホルダーを使って左腕に巻いた。
 下のゴンドラ乗り場で係りの親父が、
「今日は全面オープンしているから」
 お客さん運が良いよ、と云う。
 オヤジの言った意味はもちろん、気象条件付きコース外エリアがすべて開放されているということである。実際に行って見るとこれは物凄いもので、ゲレンデスキーしかした事がない人には衝撃的であることは間違いない。前回滑った上部エリアは穏やかなスロープだったが、中間部より下にはかなりの急斜面もあり、無論圧雪整備はしていないので難度は非常に高い。パウダーとはいかないまでも、ストックを突き刺せばグリップまですべて入ってしまう。
 スキー場側が「今日はダメです」と言う日に勝手に滑ったら、そりゃあ死ぬだろうというくらいインパクトがあった。事実クローズの日に勝手に滑って命を落とした人は少なからずいるのだ。
 管理が面倒なので普通のスキー場だったら立ち入り禁止にしてしまうところを、ここARAIでは条件が良ければ滑らせてくれるのである。この経営努力に水を差す莫迦な真似は厳に慎みたい。

 ところで、このスキー場では定年退職したようなおじさんが一人で滑っているのをよく見かける。話を訊いてみると地元の人で、やはり定年退職している身だという。シーズン券を安く買えるので年金で購入し、シーズン中は日課で来ているのだという。余程のスキー好きなのかと思いきや、家にいると粗大ゴミ扱いされてしまうので、仕方なくここで一日過ごすのだという。

 2006年7月、ARAI MOUNTAIN & SPAは、負債11億円以上を抱えて経営破たんしてしまった。再建の見込みはなく、ARAIは伝説の中に消えてしまった。
 2017年12月、ARAI MOUNTAIN & SPAは韓国のホテルロッテによりロッテアライリゾートとして12年ぶりに蘇った。
 最大の売りである好条件下でのコース外滑走容認を踏襲しているが、バブル終焉期に産み落とされた巨大遺産を償却するためなのか、コンセプトをインバウンド滞在型の高級志向に転じ、富裕層が一般庶民の行列に並ぶことなく優先的にゴンドラとリフトに乗れるファーストクラス券を新設した。1日券の料金は平民には到底手の出ない8,000円と高額設定である。カネはないがコース外の深雪は滑りたいという日帰り平民向けにエコノミー券を発行してはいるが、それでも6,000円とかなり高価だ。
 コース外滑走はリフトのカバーしない範囲もあり、スキー場トップの大毛無山の大斜面を滑るには自力でハイクアップしなければならないのは従前どおりで、パトロール管理区域外には無論立ち入れない。大毛無山の山頂は管理区域外なので、パトロール管理票に沿って稜線を小毛無山まで行って滑ることになる。小毛無山までの所要時間は雪質にもよるが概ね1時間である。

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天神平で見たもの

 初滑りの人出は春スキーのそれを凌ぐ。春スキーをしている人にはストイックなものを感じるが、初滑りというのは、あまり熱心ではない人達も半年間の我慢に耐え切れなくなるのか、とにかくこの頃の人出は平日でも多く、天神平に行った時はもの凄いものだった。
 天神平という名前はスキーを始める以前から知っていた。家族で夏山リフトに乗ったこともあるし、会社に空調機工事に来ていた監督が、しきりに天神平にスキーに行ってきたという話を聞かせてくれたので、スキー場の名前を言ってみろと言われても、苗場と草津それに天神平くらいは答えることができた。

天神峠からの谷川岳
この年は雪が少なく、アイスクラッシュシステムがカバーしないコースがどんな状況だったか、想像できるだろう
 駐車場から上がると、すでにゴンドラ乗り場から100メートルほどの行列が出来ていた。多くの人は複数で来ていて、一人が切符を買いに行き、残りは改札の行列に並ぶという高度な戦略を取っていた。私は一人だったので、行列を横目に用具一式を担いで切符売場に並び、ゴンドラチケットを買ってから改札の行列に並ぶという間の抜けたことをせざるを得ない。しかもここではゴンドラのチケットしか買えず、スキー場のリフト券は上に行ってから買ってくださいと言う。この間後から来た人200人くらいに抜かされただろうか。行列は200メートルに伸びており、結局駐車場からゲレンデに上がるまで1時間以上かかった。

 上では案の定リフト券を求める行列が出来ていた。ゲレンデは人があふれかえっており、リフト乗り場には長蛇の列が出来ていた。
 読売新聞のゲレンデ情報欄には、天神平は全面滑走可能と出ていたが、右側の山、天神峠正面ゲレンデは思いっきりクローズしており、混雑に拍車を掛けていた。この年は雪の降りが悪く、12月になってもかなり土が出ており、まともに滑れたのはアイスクラッシュシステム(※)がカバーする正面の天神平ゲレンデと、左の高倉山のみだった。

 超豪雪地帯である天神平はハイシーズンには4メートル以上の積雪があるため、リフトのプラットホームはそれを見越して地面から2メートルくらいの高さに作ってある。この日は積雪が20センチくらいだったので、当然リフトに乗るにはそこまで登らなければならず、これは初級者の私には辛いものがあった。15分くらいリフトに並んで、一瞬で滑り降りてしまう。何しろスタート地点からリフトの行列がすぐ下に見えるのはあまり愉快な気分ではなかった。
 やがて雪が削れてプラスチックのタワシが格子状になった下地が出てしまい、その端っこの部分がめくれ上がってブービートラップのようにゲレンデに突き出していた。格子の隙間にスキーの先端が突き刺されば、いきなり足払いを食らった格好になり、バインディングが解放するにせよ、顔面から硬い地面に叩きつけられるのは免れようがない。

 混雑する高倉山と正面の緩斜面をよそに、右側の天神峠リフトと天神峠裏ゲレンデはすいていた。狭いベースにあふれかえる客をとにかく回すために、天神峠ペアリフトを動かさざるを得なかったようだが、このリフトを唯一利用できる天神峠裏ゲレンデは、アイスクラッシュシステムの恩恵を受けることもなく、悲惨な状況だった。それはこの谷川岳の写真からも容易に想像できると思う。

 センターで休憩しようとしたら自販機の缶コーヒーが260円だった。これは尾瀬ヶ原の山小屋と同じ小売り価格である。尾瀬の場合歩荷(ぼっか)さんが担ぎ上げる汗の代償としよう。ここは何なのか。確かにこんな急峻なところにゴンドラを架けるのは難工事だったことだろうが、その代価なのだろうか。おそらく二度と来ることはあるまいと思い、一本買って飲んだ。そしてこれは、その後食べたカレーの値段1,500円を良心的と感じさせる効果があった。

※アイスクラッシュシステム=製氷機で作った氷を細かく砕いてゲレンデに噴射する設備で、営業時間中も稼働しており、この氷の粒の噴射が顔に当たると痛い。

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復興に歩む湯沢

 2004年の夏は記録的猛暑が続いた。台風はそれまでの観測史上最多である8つが日本列島に上陸し、兵庫県豊岡市で堤防決壊するなど各地に大きな被害をもたらした。
 同年10月23日夕刻、新潟中越地方を断続的に震度7の激震が襲い、小千谷地区周辺に壊滅的被害を与え、新幹線や高速道路も一時寸断された。
 同年12月5日には東京で最高気温25℃の夏日を観測し、スキー場には一向に雪が降らず、震災被害もあって営業を断念するスキー場もでた。湯沢地区では風評被害もあってホテルのキャンセルが相次ぎ、悲鳴を上げる観光協会は懸命に誘致活動を行った。
 同年12月中旬、私はかぐらメインゲレンデで滑っていたが、正面に見える岩原や八海山はおろか、足元のみつまたゲレンデにもまったく雪はなかった。
 年が明けて2005年1月下旬から2月上旬にかけて強い寒気が流れ込み、中越地区を19年ぶりの大雪が襲った。被災地である小千谷・川口地区の積雪は3メートルを越えた。
 とにかく次から次に猛烈な自然現象が席巻した。

 同年2月下旬、すっかり雪国の様相を取り戻した湯沢に私は来ていた。湯沢パークスキー場である。
 湯沢パークのベースはどこか懐かしい雰囲気だった。小学生の頃に行った地元のスケート場の情景が蘇る。BGMもなく実にのどかなものだ。
 しかし、ホテル前の急斜面はなかなか侮れないものがある。距離は短く整地はされているものの、雪玉を残したガチガチの状態で滑るにはそれなりの技量が必要だ。このコースは下で枝分かれしていて、どちらのコースに行っても実に面白い。以前はこういう雪には苦戦したが、今ではどうということはない。力で雪玉を吹き飛ばす滑りが身に付いている。
 上部にはコブも見えるが、まだリフトが動いていなかった。ガチガチのコブは危険ということか。10時半になるとこのリフトも動いたので、さっそく上がってみるとやはりガチガチだった。
 しかしこれもどうということはない。氷の引っ掛かりがあるが、力で高速スライドターンして引っかかりを吹き飛ばす。うむ滑れる。なかなか進歩が感じられる。コブを滑りきるとその下には迂回コースの中州に当たるオフピステがあり、これは滑っても良いようだ。コブにまではなっていないが、荒れたまま凍っている。これはロングターンで行く。滑りながら下の迂回コースの状況を見て、人がいなければコースを逆走して滑り上がり、その下の急斜面に滑り込む。なかなか楽しい。もちろんコースに人がいれば、オフピステ内で滑りを一度中断させる。
 一番奥のゲレンデトップからは、このスキー場の更に奥にある加山キャプテンコーストが見える。リフトは動いているものの滑っている人はいない。

 お昼まで滑ってホテルのレストランに入る。平日だったが私が一人だと告げると案内の女性は嫌な顔をした。お冷もグループのところは注ぎに行っていたが、私のグラスはカラでも無視された。復興支援のために早くテーブルを空けて、より金を落とすグループ客に譲り渡せということか。今シーズンは新潟復興支援に協力中の私である。会社で募金もしてきたが、復興支援のため腸が消化する時間も取らずに午後のゲレンデに飛び出した。平日でもあったため、レストラン入り口で順番待ちしている人は誰もいなかった。

 午後になると私と同色のウェアを着た10人ほどのグループがレッスンをしていた。女子高生くらいか。皆、先生について上手にパラレルターンをしている。私は彼女らをリフト上から横目にして午後はコブ&オフピステコブパラの練習で過ごした。
 レッスンも終盤になった頃、彼女らがコブに上がってきた。だが硬いコブにだいぶ難儀しており、やはり整地とは勝手が違うようだ。カービングスキーのおかげで整地は板に乗せられながらでも、うまく滑る人が多いが、コブではそういう効果はまず期待できない。ひとりひとり順番に滑ってそんな状態だったので、私はしばらくコブの出だしの端っこで少し離れてたそがれていた。

 正面に岩原が見える。はたして風評被害の所為なのか、あちらも滑っている人影がない。本当にスキー業界は斜陽なのだ、などと物思いにふけっていたが、いい加減突っ立っているのにも疲れ、そこへ寝転んだ。私は狭いコブ斜面で人に雪をぶっ掛けて滑ろうとも思わないし、このコブ用リフトの終了時刻もまもなくのこの時間、迂回コースに回るのも無駄に思えたので、これを滑って帰ろうと決め、しばらく横になって彼女らが降りきるのを待っていた。
 前述したが、彼女らとはウェアがかぶっている。端から見たら一人だけドロップアウトして寝転がっているヤツがいると映ったか、鷹揚(おうよう)な副部長くらいに見えたかもしれない。

 さて、彼女らも無事に降り切り、まもなくリフトも停まる時間だ。私がコブのスタート位置に立つと、なんか皆下で見上げている。いや、ただ講義しているだけで私を見ているわけではないかもしれない。ゴーグルをしているので視線はわからないが、先生も含めて顔は全員こちらを向いていた。周りを見ても上にいるのは私だけなので、見られている可能性は高い、などと余計な詮索をしても仕方がないので、意を決してスタートした。
 ところが突いたストックが後ろに持っていかれ、いきなり破綻しかけた。スローモーションのように体が遅れる。ここでコケれば全てが終わる。
 夏のインライントレーニングでボディバランスは向上していた。破綻しかけた刹那、板をコブにぶつけてブレーキを掛け、遅れた上体が戻ると、すかさずエッジを返して次の溝に滑り込んだ。
 まるで『デイズ・オブ・サンダー』のトム・クルーズのように、ここからが全開の滑りだった。下で見上げる彼女らがニコール・キッドマンのように、ガッツポーズを作ったかは知らない。レッスンではよく、このくらいだから滑りきれたけど、コブがあと3つあったら転んでるよ、などと評される私だが、ここは最後の最後まで攻め、一番下のコブはエアターンで決めた。転ばなくて良かった。

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田代チャレンジバーンから田代湖を臨む
失われた時間

 春の日差しのうららかな中、私はしばらくクワッドリフトの上から、かぐらテクニカルコースのコブを眺めていた。
 すでに他の多くのスキー場はシーズンを終えてしまい、まだ滑り足りないコブフリークがここには大勢集まってきている。コブは結構深くなっていたが、皆上手で楽しそうだ。私も早くあそこに行きたいと思った。
 テクニカルコースが正面に見えるベース付近上空で、もう50分もこうしていた。平成10年4月22日水曜日のことである。

 やがてベースのリフト小屋から轟音とともに猛烈な異臭を伴った黒煙が立ち上がり、非常用ディーゼルエンジンが起動した。リフトが停止してから50分、やっと動かす気になってくれたらしい。緊急対応できる職員が休みで、ポケベルで呼び出すのに手間取ったのか、ディーゼルエンジンの燃料を買いに行くのに手間取ったのか、とにかく手馴れていないことだけは確かだった。
 リフトは秒速50センチくらいの超低速運転だ。まだ残り1キロ以上あるクワッドまるまるのこの距離を、この速度で、上に着くのは一体いつになるのだろうか。

 この間下にいた連中は幸運だった。クワッドの電力が復旧しないとわかると、すぐ隣にある休止中のペアリフトの板敷きのプラットフォームに、急遽ブルドーザーで雪を敷いて稼動させやがったからだ。この対応は実に早かった。
 えらい迷惑を被ったわけだが、謝罪の言葉は一切なかった。リフトが再起動して最初のうちは謝っていたのかも知れないが、30分後には疲れてもうどうでも良くなっていたのだろう。我々が一番割りを食った口なのだが、非常に気分の悪い後始末だった。

 このスキー場は平成6年2月にも、田代ロープウェイが駅舎に突っ込むという事故をやらかしている。それから4年、設備管理体制の改善は感じられない。

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